第二章

未知の怒り




 …──



 蓬霊山(ホウレイヤマ)の屋敷から巫女が逃げ出す少し前──鬼は "境界" を離れ、久方ぶりに鬼界へと足を踏み入れていた。


 鬼界の花街は、人の世とは異なる、異様な賑わいに満ちていた。


 赤色に塗られた建物。色とりどりの提灯が揺れ、異形のモノノ怪たちが蠢く。角を生やした者、鱗に覆われた者、目が一つしかない者──それぞれが欲望の赴くままに動き回り、街は喧騒に包まれていた。


 賭け事で盛り上がる叫び声、争い合う罵声が路地に響き合い、酒と淫靡な香りが空気を重くする。


 その中心に、鬼はいた。


 高い所に置かれた座椅子に背を預け、遊女たちに囲まれながら酒を呷っていた。遊女たちは彼の美貌と妖力に引き寄せられ、媚びるように身を寄せる。


「鬼王さま、久々のご帰還でございますねぇ」


 蛇の鱗を持つ遊女が甘ったるい声で囁く。すると別の遊女──翼を生やした女が、酒を注ぎながら笑う。


「人界での探し物はとうとうお終いですか?」


「そうではない」


「では何をなさりに鬼界へ? また何か面白い遊びでも見つけたんですか?」


 鬼は杯を傾け、口元に軽薄な笑みを浮かべた。


「興味深い女を手に入れた。そいつに何か買い与えてやろうと思ったが……人間の嗜好など、検討もつかん」


「ほぉ!」


 遊女たちが一斉に目を輝かせる。


「鬼王さまのお眼鏡にかなうなんて、どんな玩具なんでしょうねぇ!」


「人間の女か? 具合はどうなんですかい?」と、角の生えたモノノ怪が興味津々に尋ねるが、鬼は答えず、ただ酒を飲み干した。


 遊女たちは羨ましげに囁き合う。何か買ってやるにしても、人間の好みなど、鬼界の者にはまるで理解できない。


「それよりも……鬼王さま」


 一人の遊女が大胆に鬼の膝に手を置き、首筋に唇を寄せる。


「今夜はあたしらを愛でてってくださいな。どんな人間より、絶対に満足させますからあ」


 鬼は一瞬、遊女を冷ややかに見つめた後、低い声で命じた。


「服を脱げ」


「うふっ、さすが鬼王さま、気が早い!」


 遊女は喜びの声を上げ、妖しく着物をはだけ始める。だが、鬼は彼女の動きを制し、冷たく言い放つ。


「衣服だけだ。試しにそれを持ち帰る」


「え?……ええ?」


 遊女は呆気にとられ、動きを止めた。


 鬼は彼女の着物を手に取り立ち上がる。


「今さらお前のような女を抱く気にはなれん…邪魔だ」


 吐き捨てられた言葉に瞠目(ドウモク)する遊女。


 彼女たちの驚いた視線を背に、鬼は花街を後にした。今はただ巫女の存在だけが──彼の欲望を独占しているようだ。


 鬼は鬼界から境界へと戻る。


 鬼界にあるひとつの門の戸を開けると、その先は境界にある彼の屋敷へ繋がっていた。


 荘厳な屋敷の戸を開け、静寂に包まれた空間に足を踏み入れる。だが、そこに巫女の姿はなかった。彼女の気配が消えていることに、鬼は一瞬、目を細めた。


「……逃げた、だと?」


 命令に背き、屋敷を抜け出したという事実に、鬼は呆然と立ち尽くす。


 腹の奥を嫌な感覚が渦巻いた。


(俺の命令にそむいたと言うのか…!?)


 だがその時、山の奥から巫女の叫び声が響いた。鋭い悲鳴が夜の静寂を切り裂き、鬼の耳に届く。


「──!」


 一瞬にして鬼の姿が屋敷から消え、叫び声のする森の奥へと移動していた。


 すると霧深い木々の間に、巫女がいた。


 複数のモノノ怪に囲まれ、ボロボロの白襦袢を掴まれ、絶望的な表情で地面に膝をついている。モノノ怪たちの赤い目が欲望に輝き、鋭い爪が彼女の肌を切り裂こうとしている。


「………!」


 鬼の視線が巫女を捉えた瞬間、胸の奥で未知の感情が爆発した。


 気付けば、彼はモノノ怪の一匹に襲いかかり、鋭い爪でその身体を八つ裂きにしていた。血と肉片が飛び散り、断末魔の叫びが森に響く。


「ナッ…!?ナッ…!?どうして貴方様がこのようなトコロに!?」


「ここここの女は…っ、たまたま見つけただけで!まさか貴方様のものとは知らず!」


 鬼に怯えて命乞いをする異形たち。しかし手遅れだ。他のモノノ怪も次々と鬼に引き裂かれ、数瞬で全滅した。


 巫女は呆然とその光景を見つめ、恐怖と混乱に震えている。


 鬼は血に濡れた手で彼女を見下ろし、冷たく笑う。


「俺から逃げた結果がこれか。無謀な女だ」


 だが、心の奥では、巫女を襲ったモノノ怪への激しい怒りが収まらない。


 なぜこんな感情が芽生えたのか、鬼自身にも理解できなかった。切れ長の目には戸惑いが揺れ、いつぶりかも忘れた「怒り」という感情に、彼は静かに狼狽えたのだった──。









 ──…






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