第2話 夢にてまみえし人
秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
わが衣手は 露にぬれつつ
――天智天皇
⸻
その手紙には、畦道を歩く少女の絵が描かれていた。
淡く滲んだ水彩の色。
広がる稲穂。
空に浮かぶ白い雲。
指先でなぞるたびに、土と風の匂いが蘇ってくる。
手紙は短かった。
それでも、そのわずかな行の中に、一生分の沈黙が詰まっていた。
*
──あのころの私に会いたくて、夢に出てきました。
田んぼのあぜ道を、妹と歩いていた頃。
父の軽トラックの音が、山あいに響いていた。
母が干した洗濯物が風に揺れ、
夕焼けの匂いが、ゆっくりと背中に染みこんできた。
その記憶の中で私は、
どんな未来も知らずに笑っていた。
都会に出ることも、
何かを失うことも、
ひとりになることも。
──でも、それでも、
あの頃の私は、私の一部だったんです。
私はやがて都会で就職し、恋をし、
子を産み、ひとを看取り、
老いて、
静かに人生を終えた。
その全ての時間が流れた後、
なぜか夢の中で、
少女の私がこう言った。
「おかえり」
私は泣いた。
自分が、ずっと帰りたかった場所に、
ようやく辿りついた気がした。
──この夢を、誰かに伝えたくて。
でも、もう誰も、名前を覚えていないから。
せめて、風に任せて、ここへ流します。
*
手紙を読み終えた局員は、
そっと便箋を閉じ、封を戻した。
遠くで風鈴が鳴る音がした。
風がまた、新しい手紙を運んできたのかもしれない。
この郵便局には、もう存在しない人々の声が集まる。
それは、誰の記憶にも残らなかった言葉たち。
だが、それでも。
誰かの心のどこかで揺れていた、
「生きていた証」だった。
土の匂い、妹の声、
あのときの笑い声。
たった一夜の夢に会えた人は、
きっともう、一人ではない。
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