風の郵便局

チャッキー

第1話 名を失った手紙



恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

――壬生忠見



風の郵便局には、宛先も差出人もない手紙が届く。

名前のない封筒、かすれた筆跡、何年も前に書かれたような便箋。

それでも、それは確かに誰かの人生の断片だった。


その局で働くひとりの局員は、今日もまた、風に運ばれてきた手紙を一枚、手に取った。


これは、彼女が出会った最初の一通の手紙の話。


  *


──「恋なんて、してないと思ってたのに」


文面は、そんな独白から始まっていた。


高校生の頃。

隣のクラスの男子。話したことも、名前も知らなかった。

でも、目が合うたびに胸が苦しくなった。

教室の窓から見える背中を、何度も目で追った。

声をかけることも、近づくこともできなかったのに、

ある日、噂になった。


「アイツ、あの人のこと好きらしいよ」

「毎日見てるって。やばくない?」


恋より先に、言葉が先に立った。

恋より先に、名前が独り歩きした。

恋は、知られることで、壊れていった。


──私はただ、

  人知れず、思いそめていただけなのに。


視線が怖くて避けた。

見ないふり、知らないふりをして、

恋を、なかったことにした。


けれどあのときの胸のざわめきだけは、

今も胸の奥に残っている。


──私の名は、そのとき消えた気がする。

あのときの私は、恋をしていたのに。

誰にも知られたくなかっただけなのに。

恋の名が、わたしの名を先に立ててしまった。


  *


局員はそっと手紙を閉じる。

あたたかな風が、古びた局舎をかすめて通り抜けていった。


この郵便局には、誰にも届かなかった手紙だけが集まってくる。

けれど、それらは確かに、生きた証だった。


「……忘れられた恋なんて、きっと、どこにもないわ」


今日もまた、名のない手紙が届く。

風に運ばれ、記憶にすら残らなかった小さな想いが、

こうして誰かの手に渡る。


その小さな火が、ひとつずつ、灯っていく。

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