第5話 まとわりつく泡


 それは、不思議な物体だった。例えるならば、お母さんが毎朝必死にまつ毛に塗りたくっているマスカラに似ている。でも、マスカラとは違う。

「なにこれ。泡だて器?」

 蓋、と呼びたくなってしまう短いほうに、細い泡だて器のような物体がついていた。ほかになんと表現したらいいのだろう。自分の中にある知識から、泡だて器以外の言葉を見つけることができない。空気を泡立てるように、それをくるくると回してみる。

「あ、わかった! ラテ? とかを作るときに使うやつだ! きっとそうだ!」

 コーヒーの上にもこもこの泡になった牛乳をのせた飲み物を見たことがある! あれを作るための道具、と考えるのが、今は一番自然に思える。

「あれ? ってことは、誰かの大事なものってことかな。落とし物? ってことは、交番へ届けに行けばいいのかな」

 クカァ、クカァ、とカラスが鳴いた。太陽がいよいよ大きく傾いていた。そろそろ帰らないといけない時間みたいだ。

 ふぅ、っと大きく深呼吸をして、立ち上がる。

 泡だて器を筒にしまう前に、もう一度不思議な落とし物をじっくりと観察してみる。蓋のところに、ちいさな突起を見つけた。考える。ここに、これが存在する理由は――

「あ、わかった! きっと、このボタンを押したらこの泡だて器が動くんだ。それで、牛乳をもこもこにするんだよ」

 牛乳なんて持っていないから、もこもこを作ってみることなんてできない。でも、これがどのように動くのか、わたしは興味を持ってしまった。

 数秒押し込んだくらいで、持ち主にばれたり文句を言われるほどに電池が減ることはないだろうと、ボタンをぎゅっと押し込む。

 ――ギギ、ギュギュギュイーン!

 泡だて器がくるくると回転し始めた!

 予想的中だ!

 ふん、と鼻から息を吐き、胸を張る。それから、ボタンからそっと指を離した。

「え? ……え⁉」

 ボタンを押すのをやめても、泡だて器は止まらない。押している間だけ回転するものではない。それならば、もう一度押したら止まるはず! でも、もう一度押しても止まらない。長押ししても止まらない。

「ど、どうしよう!」

 くるくる回る泡だて器を持ったまま、ひとり右往左往する。こういう時は、ひとりって良くない。誰でもいいから、それこそ犬とか猫とか、さっき鳴いていたカラスとか、誰でもいいからそばにいてほしい。混乱した頭からは、冷静の二文字が抜け落ちている。

「こんなもの、拾わなきゃよかったぁ」

 目が熱い。なんだか痛い。わたしは今、泣きそうだ。

 するとその時、泡だて器が突然泡を纏いだした。泡はどんどんと大きくなっていく。

「え、どういうこと? なんなの? これって、もう牛乳が入っていたってこと?」

 自分が言っていることがおかしいと、この瞬間のわたしは気づけない。

「怖い、怖い怖い怖い!」

 わたしはようやく、泡だて器を手放す、という行動に出た。放してみたら、ほんの少し冷静さを取り戻した。なんで今の今までこれを掴み続けていたんだろうと不思議に思う。

 もこもこの泡は、小さな泡だて器がどこかに隠していた材料を泡立てて生み出したと想像できる量をはるかに超えて、一年生くらいの大きさになった。泡は成長をやめない。泡の高さは、わたしの背丈と大差なくなった。

 わたしはいったい、どうしたらいい? この後とるべき行動は何か、急いで考える。

「わ、わたしは何も拾わなかった。たまたま裏山に遊びに来て、まったりして、それでこれから帰る。それだけ!」

 泡だて器に言い聞かせるようにそう言うと、家へ向かって歩き出した。けれど、泡はわたしを引き留めた。

「え……やだ、やだやだやだ!」

 気づけば、泡がわたしの左足にまとわりついていた。

 見た目にはもこもこで柔らかそうな泡だけれど、触れられると印象ががらりと変わる。ねばついて、力強い。それはまるで、何かの生き物の手みたいだ。

 まとわりついた泡を足から剥がそうと、泡に両手を突っ込んだ。わたしに冷静さがもう少し戻ってきていたら、そんなことはしなかっただろう。だって、少し考えたら、その行動が悪手だとわかったはずだから。

「いやだ! なんなの、これ!」

 泡はわたしの両手にもまとわりつく。右足にも泡が迫る。必死になって、右足だけでも泡から逃れられないかと抵抗する。

 けれど、泡はわたしを放してくれない。

 ――わたし、死ぬのかもしれない。

 ふと、そう思った。

 死を思考した直後、わたしの全身は泡に包まれた。ふわり、と無重力を感じる。泡の中で必死にもがくと、泡の向こうが少し見えた。地面が見える。木が見える。鳥が見える。

「空を、飛んでる……」

 地上にいるみんなには、今のわたしはいったいどのように見えているのだろう。誰にも見えていないのだろうか。

 わたしは、選んでしまった今をどうにも受け入れきれずに、

「そこのおじさん、助けて!」

 刹那、大人に期待して、叫んだ。でも、助けてくれない。

 つー、と涙が流れた。体が震える。けれど、わたしの震えは泡に吸収されて、なかったことにされてしまう。じんわりと、体があたたかくなり始めた。泡に慰められているような心地がする。

「連れ去ったのは、そっちのくせに」

 文句を言う。けれど、その温かさに癒される。似たようなやり取りを、小さいころ、お母さんとした気がする。ああ、なんだか、子ども返りしたみたい。



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