わたしと雲の楽園

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

第1話 窮屈な世の中と不満


 この世の中は窮屈だと思う。

 空はとっても広くてゆったりしているのに、地上はありとあらゆるもので埋め尽くされている。重力に押し付けられたものたちがうごめいていて、自由な場所なんて生き物が存在しえない過酷な場所くらいにしかない。

 重力にあらがえない存在なのだから、地上で暮らすことは仕方ないと受け入れよう。でも、それなら、限られた地上の世界を自由にしたい。

 だけど、たぶん、自由を得る権利を手にする可能性を掴むことができるのは、大人になってからだ。子ども、というか、成人するまでの間は、自由とは縁遠い窮屈な世界を生きるしかないのだと思う。

 押し込められている学校。歩いただけで机や物に体がぶつかるほどに詰められた机。ゆとりのないロッカーから転げ落ちる荷物。わたしたちに主張や決定する権利があるなら、もっと教室を広くするか、一クラスの人数を減らして、教室を広く使えるようにする。ロッカーに詰め切れないほどの荷物を持ってこなくていいようにするとか、どうしても必要ならそれをしまっておける倉庫部屋を用意する。そんな理想の話をぽろっと口にしたなら、「それはお金を稼いでみたことがないから言えることだよ」とすぐさま否定されるのが現実世界だ。

 そんな世の中を生きる先輩であり、子どもの考えを条件反射的に否定することがある大人たちは、必ずしもわたしたちが追いたいと思えるような、かっこいい背中を見せてはくれない。彼らは自分たちで作ったルールを、自分たちで平然と破っていく。

 たとえば、歩道のない道路のはしを歩いていると、ぶつかりそうなくらいすぐ横を車や自転車がビュンと駆けていく。本当は、歩いている人がいたらゆっくりにしたり、距離をとったりしないといけないらしいんだけど。横断歩道に信号がなければ、それを渡るのは難しい。何台も見送って、ようやく渡る。それが常。まぁ、よく止まってくれる地域もあるらしいから、わたしが住んでいる地域がハズレってことなのかもしれないけれど。

 そのほかにも言いたいことはいろいろあるけれど、今話したことだけでも、この世界が危険で満ちていて、それによってただでさえ窮屈な世界でより窮屈な思いをさせられていることをなんとなく想像してもらえたんじゃないかと思う。

 わたしたちは窮屈で、もっと言うなら、ろくに人権がないんだ。

 大人はわたしたちの見本に、道しるべになってはくれない。ぐらついて、何を信じたらいいのかわからない、何も信じられない世の中を、広い空や目の前の蝶々に見惚れられた小さいころのように好き勝手歩くことは、わたしにはもう、難しい。

 

 誰もいない家に帰った。誰が返事をしてくれるわけでもないけれど、なんとなくそうしたほうが気分がいいような気がして、「ただいま」とつぶやく。

 少しでも適当に置いたならコロンと転がり落ちてしまうくらい窮屈なランドセル置き場に、くたびれたランドセルをそっと置く。錠前に手をかけて、カチャ、と開く。さっさと宿題を終えてしまおう。そうすれば、ひとつの窮屈とはおさらばできるから。

 机の上に放置されている雑多なものを押しのけて、ノートを広げる場所を作る。ぼてっとティッシュの箱が転げ落ちたような気がするけれど、気にしない。

 今日の宿題は、習ったことをノートにまとめることと、予習プリントをやることだ。低学年の頃は「親に丸つけをしてもらって」と言われていたから、自分一人で宿題を終えることができなかった。でも、今は違う。解いたら自分で丸つけをしていい。そのために、解答冊子も配られている。

 わたしはそんなことをしないけれど、手元に解答があるからと、解答冊子を丸写ししている人もいる。そういう人は、だいたい先生に丸写ししたことがばれて、怒られる。だけど懲りずに、どうしたらバレずに写せるかということを考えることに躍起になっていたりする。

 ふと思う。

そういう人は、なんだかいつも楽しそうに笑っているんだよな、と。

 わたしも、宿題を丸写ししたら、あんなふうに笑えるのだろうか、と。

 窮屈な世の中で、それでもけらけらと笑いながら、生きていけるのだろうか、と。

「ただいまぁ」

 玄関の方からお母さんの声がした。

「おかえり」

「はぁ、つかれたぁ」

「おつかれさま」

「お腹空いてる? ちょっと休憩してからでもいい?」

「そんな空いてない。休憩してからでいいよ」

 ああ、わたしが〝自分の部屋が欲しい〟と思うのは、こういうときなんだな、と、わたしは他人事のように考える。

 空きすぎたお腹が声をあげないように、腹筋に力を入れて、唾液を飲み込む。知られてはならない。たった今、お腹はそんなに空いていないと言ったばかりなんだから。

「ねぇ、聞いてよ」

「ん? どうしたの?」

 お母さんは麦茶をぐびぐびと飲んで、アーっとお酒を飲んだおじさんのような野太い声を吐いた。

「職場でさ、嫌なことがあったんだよね」

 ああ、始まる、とわたしは思う。

 お母さんの愚痴タイムは、始まると長い。そして、重い。一秒ごとに、心にブロックをひとつずつ積み上げていくようなものなのだ。終わるころには、重みとそれがもたらす痛みで、わたしの欲はひとつになる。

 一人になりたい。窮屈なこの場所から逃げ出して、どこか広くて自由な場所で――一人になりたい。

「あ、あとさ」

「……うん」

 やっと愚痴が終わったかと思ったけれど、話はまだ続くらしい。さっきまでは堪えなければ鳴ってしまいそうだったお腹が、もう食欲を失って、何もしなくても鳴らなくなっている。なんなら、食べ物を入れたら、それを口まで押し戻しそうな気がする。

「明日、おばあちゃんの家に行ってきてくれない? いただいたお菓子があるんだけど、賞味期限が近くてさ。早めに届けに行きたいんだけど、時間作れそうになくて」

 大人も大人とて、自由をつかみ取るのは簡単なことではないみたいだ。

「ああ、うん。わかった」

「お小遣い、期待しちゃだめだからね」

「わかってる」

「お菓子もね」

「どうせ、おばあちゃんが『食べていきな』って言うけどね」

「そうだとしても、こっちから『食べたい』って言っちゃだめだよって話」

「わかってるよ。うるさいなぁ」

「うるさいとは何よ! だいたい、いつもプリプリして。もっと朗らかにできないの?」

 いつもプリプリしているのは、わたしだけじゃない。自分のことを棚に上げちゃってさ。

「ああ、はいはい。ごめんなさい」と、吐き捨てる。

 その日の晩御飯は、焦げているところがあるくせに生温かい生野菜って感じがする部分もある、やけくそ野菜炒めだった。



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