第5話 堕ちた研究者

​​ 新田祐樹という青年が、人間としての尊厳を少しずつ剥奪されていく様を記録したスマートフォンのデータは、水無月遥にとって、最後の希望であり、同時に、地獄の釜の底を覗くための鍵でもあった。画面の中では、腕に宿った冒涜的な器官が、今もなお、意味不明な音節を囁き続けている。その声は、もはや祐樹を苛むだけでなく、この電子機器そのものを新たな「口」として汚染し、その機能を内側から蝕んでいるかのようだった。


​ 遥は、そのおぞましい証拠を懐に、西武新宿線の沿線にある、陽の光から見放されたような古いアパートの前に立っていた。ここが、祐樹を救うための、そしてこの静かなる侵略の真相を知るための、唯一の手がかり――元「西東京生命科学研究所」主任研究員、佐伯さえき まことの棲家だった。


​ 錆びついた鉄のドアをノックすると、しばらくの沈黙の後、内側から鍵が外れる、気の滅入るような音がした。ドアがわずかに開き、その隙間から、澱んだ空気が溢れ出す。腐りかけた食品の匂い、安物の蒸留酒の甘ったるい香り、そして、長年にわたって蓄積された絶望そのものが発する、魂のない匂い。


​ 隙間から覗いていたのは、人間の抜け殻のような男だった。窪んだ眼窩、生気のない濁った瞳、伸び放題の無精髭。彼が、かつて日本の頭脳とまで言われた天才科学者、佐伯誠の成れの果てだった。


​「……何の用だ」


 その声は、砂利を吐き出すように嗄れていた。


「佐伯誠さんですね。私、水無月遥と申します。研究所の件で、お話を伺いに……」


「帰れ。もう終わったことだ。私に話すことなど、何もない」」


 遥の言葉を遮り、佐伯は無感情に言い放った。そして、ドアを閉めようとする。遥は、その隙間に咄嗟に足をねじ込んだ。


「終わってなんかいません! 終わらせないために、ここに来たんです!」


​ 遥は、懐からスマートフォンを取り出し、その画面を、佐伯の虚ろな目の前に突きつけた。


「これを見ても、まだ終わったことだと言えるんですか!」


​ 画面には、薄暗い部屋でベッドに横たわる祐樹の姿が映し出されていた。そして、彼の腕で、あの「第三の口」が、ぬらりとした光沢を放ちながら、蠢き、囁いている。


『リィ・ルゥ・ガ……シャン……』


​ 佐伯の瞳が、初めて焦点を結んだ。彼は、画面に映るその冒涜的な器官に釘付けになり、その呼吸が徐々に荒くなっていく。やがて、その身体は、まるで極度の悪寒に襲われたかのように、カタカタと震え始めた。彼は、亡霊にでも遭遇したかのように、ゆっくりと後ずさる。


​ 遥は、畳み掛けるように、研究所で撮影したシャンの抜け殻の写真を彼に見せた。


「これも、あなたが『終わった』と言い張るものの、ほんの一部です」


​ 佐伯は、写真とスマートフォンの画面を交互に見比べ、そして、ついに何かが壊れたかのように、甲高い声で笑い始めた。それは、悲しみも、怒りも通り越した、完全な虚無から生まれた、狂人の笑い声だった。やがて、その笑いは嗚咽に変わり、彼は崩れるように床に膝をついた。


​「……『シャン』だ……」


 床に四つん這いになりながら、佐伯の唇から、絞り出すような声が漏れた。


「……まだ、生きていたのか……いや、違うな。奴らに、我々が定義するような生や死の概念など、元より存在しないのだから……」


​ 彼は、観念したのだ。自分が何年もの間、酒と怠惰の底に無理やり沈めていた悪夢が、ついに現実となって自分を迎えに来たことを。


​ 遥を部屋の中に招き入れると、佐伯は、床に転がっていたウイスキーの瓶を掴み、それを水のように煽った。そして、自らの罪を告白する懺悔者のように、あるいは、終末を告げる預言者のように、途切れ途切れに語り始めた。


​「奴らは、生物ではない。少なくとも、我々が知る生命の定義には当てはまらん。奴らの本質は『情報』だ。我々の宇宙の外側、高次元の時空に存在する、自己増殖する情報生命体、あるいは、宇宙的ミームとでも呼ぶべきものだ」


​ 彼の言葉は、科学者の冷静な分析と、全てを知ってしまった者の狂気が、危険なバランスで混じり合っていた。部屋の壁には、彼が書き殴ったのであろう、膨大な数式や、理解不能な幾何学模様の図形が、びっしりと貼り付けられている。


​「我々は、研究所で奴らを『発見』したと思っていた。異次元からの微弱な信号を捉え、それを物質化することに成功したのだと、有頂天になっていた。だが、それは大きな間違いだった。我々は、発見したのではない。奴らに『選ばれた』のだ。奴らは、我々の知性を、好奇心を、そして傲慢さを、この宇宙に侵入するための『鍵』として利用したに過ぎん」


​ 佐伯は、壁の図形の一つを、震える指でなぞった。それは、口のようにも、穴のようにも、そして、数学的な特異点のようにも見えた。


「君が見た『口』や『孔』は、単なる肉体器官ではない。あれは、奴らが我々の現実に干渉するためのインターフェースだ。一種の、現実ハッキングツールだと思えばいい。奴らは、あの『口』を通じて、この世界の物理法則を、自分たちの生存に適した形へと、静かに、しかし確実に『上書き』していく。我々がコンピューターのOSを書き換えるようにな。奴らは、世界を破壊するのではない。世界の『意味』そのものを、内側から変質させてしまうのだ」


​ そして、彼は、数年前に起きた漏洩事件の、絶望的な真相を明かした。


「あれは、事故などではなかった。厳重な封じ込め、幾重にも施されたセキュリティ、そんなものは、奴らにとっては何の意味もなかったのだよ。なぜなら、奴らは我々の精神に、まるでウイルスのように寄生することができたからだ。我々研究員は、知らぬ間に奴らの操り人形と化し、自らの手で、あのパンドラの箱を開けてしまったのだ。私は、私の親友が、狂ったように笑いながら、封じ込めシステムの最終ロックを解除するのを、ただ見ていることしかできなかった……」


​「我々は、奴らを研究しているつもりだった。だが、本当は、我々が奴らに観察され、弄ばれ、試されていたに過ぎなかったのだ」


​ 佐伯は語り終えると、再びウイスキーを呷り、空になった瓶を床に叩きつけた。ガラスの砕ける甲高い音が、彼の絶望の深さを物語っていた。彼は、涙で濡れた、しかし今はもう何も映してはいない瞳で、遥を見つめた。


​「分かるかね、お嬢さん。もう、手遅れなのだよ。君の友人の腕に巣食ったアレは、始まりの始まりに過ぎん。奴らはもう、この星の至る所に孔を開け、囁き始めている。我々が今いるこの世界は、もう我々の知っている世界ではないのだ。奴らのOSが、すでにバックグラウンドでインストールされ、起動の時を待っているのだからな」


​ その、終末の宣告が終わるのを待っていたかのように。


 アパートの外の、遠い通りから、複数のサイレンの音が、ゆっくりと、しかし確実に、この部屋へと近づいてくるのが聞こえ始めた。

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