第3話 閉鎖された研究所
『これ以上、深淵を覗くな。次はない』
その無機質なテキストの裏側には、給水塔で目撃した黒服の男たちの、感情のない瞳がちらついていた。彼らは、あの冒涜的な「口」を躊躇なく焼き尽くした。同じことを、自分に対してできないはずがない。恐怖が、冷たい粘液のように彼女の全身に絡みつき、部屋から一歩も出ることを許さなかった。ジャーナリストとしての使命感も、根源的な好奇心も、純粋な生存本能の前では色褪せていく。
その均衡を破ったのは、新田祐樹から送られてきた一枚の画像だった。それは、彼が収集した目撃情報を、丹念に地図上へプロットしたものだった。無数の赤い点が、まるで病巣のように東京の西側を覆っている。そして、その中心――すべての汚染が、そこから発生したとしか思えない特異点に、一つの施設の名が記されていた。
『西東京生命科学研究所』
地図の上に浮かび上がったのは、偶然の産物などではない、おそろしくも完全な幾何学模様だった。それは、巨大な蜘蛛が巣を張るように、あるいは、水面に落ちた一滴の毒が同心円状に広がっていくように、完璧な論理と法則性をもって、この世界を侵食している証拠だった。
遥は、自分の内なる天秤が、再び「深淵」の方へと大きく傾くのを感じた。恐怖は消えない。だが、目の前に提示された「謎の完璧な形」は、彼女の理性を焼き焦がすほどに魅力的だった。これは、もはやただの都市伝説ではない。人類の認識の外側で静かに進行している、壮大な「何か」の序曲なのだ。その正体を突き止めずして、どうしてジャーナリストを名乗れようか。
彼女はスマートフォンを手に取り、祐樹に短いメッセージを送った。
『今夜、行くわよ』
数秒の後、返信が来た。
『分かりました。付き合いますよ、どこまでも』
その文面に、以前のような軽薄さはなかった。彼もまた、あの給水塔での一件以来、後戻りのできない場所に足を踏み入れてしまった共犯者なのだ。二人の間には、恐怖を媒介とした、奇妙で歪んだ連帯感が生まれていた。
深夜、二人は再び、月のない闇の中へと身を投じた。目的地である研究所は、丘陵地帯の森を切り拓いた、広大な敷地に鎮座していた。高さ三メートルはあろうかというフェンスが延々と続き、その上には有刺鉄線が殺風景な光を反射している。
等間隔に設置された監視カメラは、すべて力なく首を垂れ、まるで空虚な眼窩のように闇を見つめていた。入り口のゲートは固く閉ざされ、「関係者以外立入禁止 生物災害対策区域」と記された物々しい警告板が、ここが禁断の地であることを物語っていた。
祐樹が持参したボルトクリッパーが、鈍い音を立ててフェンスのワイヤーを断ち切る。軋む金属音は、まるで禁忌を破る悲鳴のように、不気味に響き渡った。
敷地内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。外とは明らかに違う、濃密で、重く、そして粘性を帯びた空気が、二人の肺腑を満たす。微かに鼻をつくのは、埃や黴の匂いに混じった、あの甘い腐臭だった。それは、生命が最も冒涜的な形で成熟し、そして腐敗していく匂いだった。
懐中電灯の光を頼りに、二人は巨大な研究棟の建物へと向かった。ガラスの割れた玄関から内部に侵入すると、そこは時が止まった空間だった。床には「極秘」のスタンプが押された書類が散乱し、壁には正体不明の化学式が書き殴られている。人々の営みが、ある日突然、何の予兆もなく断絶したかのような光景。二人は、建物の最奥、実験室とプレートに記された、重々しい二重扉の前で足を止めた。
「……ここだ。一番、匂いが強い」
遥が呟いた。
祐樹は頷き、意を決して扉に手をかけた。固く閉ざされているかと思われた扉は、意外なほどあっさりと、低い呻き声を上げて開いた。
そして、二人は見た。
懐中電灯の光が、信じがたい光景を暗闇から抉り出した。そこは、部屋ではなかった。おぞましい生命の痕跡によって埋め尽くされた、巨大な洞窟だった。床から壁、そして天井に至るまで、おびただしい数の「抜け殻」が、まるで冒涜的な珊瑚礁のように群生し、空間を覆い尽くしていた。
それは、地球上のいかなる生物の抜け殻とも似ていなかった。大きさは拳大のものから、人間ほどの大きさのものまで様々だ。半透明の殻は、見る角度によって虹色の光沢を放ち、その表面は、非ユークリッド幾何学的な、人間の脳が理解を拒むような複雑な紋様で覆われている。光に照らされた影は、ゆらゆらと揺らめき、あたかも抜け殻全体が、今もなお呼吸を続けているかのように錯覚させた。
「……シャン……」
遥は、無意識にその名を口にしていた。これが、あの佐伯という研究者が語っていた、異次元からの侵略者の痕跡なのだ。
遥は、我に返ると、夢中でカメラのシャッターを切り始めた。この光景を、この冒涜的な美しさを、記録しなければならない。一方、祐樹は入り口近くで立ち尽くし、その異様な光景に完全に圧倒されていた。
その時だった。部屋の最も深い闇、抜け殻が山のように積み上がったその奥深くで、カサリ、と。乾いた音がした。
遥と祐樹の動きが、同時に止まる。心臓の音が、やけに大きく耳に響いた。
「……気のせい、か?」
祐樹が、か細い声で言った。
気のせいではなかった。次の瞬間、黒い閃光が、音もなく二人に向かって迸った。それは、固体と液体と気体と影を同時に混ぜ合わせたような、名状しがたい存在だった。昆虫じみた多関節の肢、刃物のように鋭い鎌、そして、それら全てを包む、輪郭の曖昧な闇。それは、我々の宇宙の物理法則を嘲笑うかのように、直線ではなく、空間そのものを歪めて跳躍していた。
「危ない!」
祐樹が叫び、硬直していた遥の身体を突き飛ばした。遥は床に倒れ込み、その視線の先で、おぞましい光景が繰り広げられるのを目撃した。
黒い影――シャン――は、祐樹の差し出された右腕に、一瞬だけ食らいついた。ブツリ、と。湿った肉が引き裂かれる、鈍く、そして決定的な音が響き渡る。祐樹の苦悶に満ちた短い悲鳴。シャンは、目的を果たしたとでも言うように、再び影の中へと身を翻し、抜け殻の山の奥深くへと、その姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、腕を押さえて床にうずくまる祐樹の姿だけだった。
「祐樹くん! しっかりして!」
遥はパニックになりながらも祐樹に駆け寄り、彼を担ぎ上げるようにして、命からがら研究所を脱出した。車の後部座席で、遥は自分のTシャツを引き裂いて、祐樹の腕に応急処置を施す。だが、包帯はすぐに、どす黒い血でじっとりと濡れていった。
懐中電灯の光が、傷口を照らし出す。遥は、息を呑んだ。
それは、ただの噛み傷ではなかった。深く抉られた傷口の周囲には、まるで皮膚の下で黒いインクを滲ませたかのように、奇妙な紋様が浮かび上がり始めていた。それは、凍てついた窓ガラスに浮かぶ霜の結晶のようでもあり、あるいは、古代遺跡に刻まれた、理解不能な幾何学模様のようでもあった。
その紋様は、ゆっくりと、しかし確実に、祐樹の腕を蝕んでいく。それは、おぞましい変容の、最初の兆しだった。
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