『第三の口』:無形の囁き手の頌歌

火之元 ノヒト

​​【第一部:発端】

第1話 ​​孔の噂

​ 人間が世界を認識するための窓は、あまりにも少ない。我々が五感と呼ぶ貧弱なスリットから差し込む光や音の断片を、脳という薄暗い部屋の中で性急につなぎ合わせ、それを「現実」と名付けて安住しているに過ぎないのだ。だが、時折、その壁にひびが入ることがある。常識という名の漆喰が剥がれ落ち、本来であれば決して覗くことのできない、壁の向こう側の暗闇が顔を出すことがある。


​ 水無月みなづき はるかは、その「ひび割れ」を蒐集し、分類し、商品として陳列することを生業としていた。


​ 彼女の運営するウェブサイト『深淵通信アビス・コール』は、オカルトや都市伝説を扱う数多のサイトの中でも、異質な光を放っていた。遥は、心霊写真やUFO目撃談といったありふれたコンテンツには目もくれず、もっぱら理解の範疇を超えた怪異の断片ばかりを扱っていた。読者の不安を煽るための安っぽい演出は一切なく、ただ淡々と、観測された事実と考察だけが、冷たいゴシック体のフォントで綴られていく。その行間から滲み出す、本質的で宇宙的な恐怖こそが、『深淵通信』をカルト的な人気サイトへと押し上げていた。


​ その日も遥は、エナジードリンクの金属的な後味だけが支配する自室で、情報の海を漂流していた。十六インチのモニターに映し出されるのは、真偽不明の言説や、悪意に満ちたノイズ、そして、ありふれた日常の退屈なスナップショット。そのほとんどは、彼女の網膜を滑り落ちていくだけの無価値なピクセルの羅列だ。だが、彼女の指がスクロールを止めたのは、とある匿名掲示板のスレッドに埋もれていた、取るに足らない書き込みがきっかけだった。


​『多摩の××駅前、三番目の電柱に口が生えてた』


​ 最初は、よくある悪ふざけだと思った。しかし、その書き込みに添付されていた一枚の画像が、遥の背筋に冷たい爬虫類が這うような感覚を呼び起こした。画像は、スマートフォンのカメラで撮られたものだろう、手ブレがひどく、夜間の撮影のためかノイズも多い。

 だが、その不明瞭さこそが、奇妙なリアリティを生んでいた。コンクリートの電柱の、地上から二メートルほどの高さに、それはあった。間違いなく「口」だった。薄暗がりの中にあってもなお生々しい、湿り気を帯びた唇。それは、悪質な合成画像が持つデジタル的な輪郭の硬さがなく、まるで最初からそこにあったかのように、無機質なコンクリートと有機的に融合していた。


​ 遥の指が、憑かれたように動き出す。彼女は自作のプログラムを起動させ、画像データに含まれる僅かな情報を基に、類似の事象をインターネットの深層から探り始めた。数時間後、モニターに映し出された結果に、彼女は息を呑んだ。


 ​「瞬きする壁」

 「歌うマンホール」

 「呼吸するアスファルト」


​ 同様の、しかしそれぞれが微妙に異なる怪異の報告が、ここ数週間で爆発的に増殖していたのだ。そのどれもが、取るに足らない個人のブログや、すぐに削除されるSNSの投稿といった、情報の奔流の中に一瞬だけ顔を出す泡沫のような存在だった。だが、遥がそれらの発生地点を地図上にプロットしていくと、そこに恐ろしいほどの規則性が浮かび上がった。


​ すべての目撃情報は、東京都多摩地区に集中している。それも、数年前に大規模なバイオハザード疑惑で閉鎖された「西東京生命科学研究所」の跡地を中心として、ほぼ正確な同心円状に広がっていた。


​ これは、偶然ではない。何かの「汚染」が、そこから静かに、そして着実に拡散しているのだ。


​ 遥は、椅子に深く身を沈めた。ジャーナリストとしての血が騒ぐと同時に、生物としての本能が、これ以上深入りしてはならないと警鐘を鳴らしていた。壁の向こう側を覗いてはならない。そこにあるのは、知的好奇心を満たすような甘美な真実などではない。ただ、人間という脆弱な理性を粉々に打ち砕く、絶対的な狂気だけだ。


 ​.……だが、それでも知りたい。


​ その抗いがたい欲求が、いつも彼女を深淵へと向かわせるのだ。遥は観念し、SNSを開くと、新しい投稿を作成した。


​『【求ム】多摩地区でのドローン撮影に協力可能な方。当方、ウェブメディア記者。詳細はDMにて。薄謝あり』


​ いくつかの無意味な返信を無視し、彼女の目が留まったのは、一件のアカウントだった。新田 祐樹にった ゆうき。アイコンは最新型のドローン。プロフィールには「都内大学工学部」とだけある。いくつかのやり取りの後、彼は遥の依頼に強い興味を示した。彼の文章からは、若さゆえの無謀さと、怪異に対する純粋な好奇心が透けて見えた。週末に現地で会う約束を取り付けると、遥はPCの電源を落とした。だが、モニターの暗転した画面に映る自分の顔が、ひどく強張っていることに、彼女は気づかなかった。


​ その夜、遥は夢を見た。


​ 彼女は、コンクリートでできた、継ぎ目のない部屋に立っていた。天井も、床も、四方の壁も、すべてが同じ、冷たい質感の灰色だった。出口はない。そして、それらは生きていた。壁一面に、無数の「口」が、ゆっくりと、しかし確実に開いていく。大きさも形も様々だ。あるものは人間の唇に酷似し、あるものは魚のように裂け、またあるものは、昆虫の顎を思わせる冒涜的な形状をしていた。


​ それらの口が、一斉に囁き始める。


​ 声ではない。音ですらない。それは、意味も、論理も、感情も介在しない、純粋な「情報」の奔流だった。星辰の運行、原子の崩壊、生命の合成、そして遥自身が忘れていた幼い頃の記憶、昨日食べた夕食の味、まだ読んでいない本の結末。ありとあらゆる情報が、彼女の認識の壁を無視して、脳に直接流れ込んでくる。自己と他者の境界が溶け、意識の輪郭が曖昧になっていく。自分が水無月遥であるという事実すら、このおぞましい合唱の中に掻き消されてしまいそうだった。


​「やめて」


​ 声を出そうとしたが、彼女自身の喉から出てきたのもまた、意味をなさない囁きだった。恐怖に目を見開くと、目の前の壁に開いた巨大な口が、自分と全く同じ音を発していることに気づく。


​ 私は、壁なのか? 壁が、私なのか?


​ 絶叫と共に、遥はベッドの上で跳ね起きた。全身は冷たい汗で濡れ、心臓が肋骨を内側から叩き壊さんばかりに激しく脈打っている。窓の外では、東京の夜景が、何事もなかったかのように無機質な光を放っていた。


​ 同じ時刻、その夜景を見下ろす、霞が関の庁舎の一室。


​ 桐島きりしま れんは、部下から差し出されたタブレットの画面を、一切の感情を排した瞳で見つめていた。画面には、遥が先ほどまで見ていたのと同じ、電柱に生えた口の写真が映し出されている。


​「本日0時をもって、多摩地区で確認された汚染レベルC案件のネット上への流出、三十七件。うち三十二件は削除済み。残り五件も追跡中です」


​ 部下の報告に、桐島は僅かに眉をひそめた。


​「拡散速度が上がっているな。現場の『処理』班の状況は?」


​「問題ありません。物理的汚染源は確認次第、プロトコルに従い焼却処分しています。ですが、桐島室長……このままでは、いずれ」


​「いずれ、どうなる?」


​ 桐島の冷たい声に、部下は口をつぐんだ。桐島はタブレットから顔を上げ、巨大な窓の向こうに広がる、光の海へと視線を移した。そこに住まう一千万の人間は、自分たちの足元で、静かなる侵略が着実に進行していることなど、知る由もない。知らせる必要もない。秩序とは、無知の上に成り立つ、脆い硝子の城なのだから。


​「懸念は不要だ。我々は、我々の務めを果たすだけだ。情報統制を徹底しろ。それから……」


​ 桐島は指で画面をスワイプし、遥のサイト『深淵通信』のトップページを映し出した。


​「このサイトの運営者、水無月遥。監視レベルを一段階上げろ。彼女は、見てはいけないものを、見ようとしすぎている」


​ その声は、悪夢の中で遥が聞いた囁きのように、温度も、感情も、一切感じさせなかった。

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