第6章 黒い月の記憶


 その晩、僕はいつもよりも深く、長い夢を見た。


 夢の中に現れたのは、真っ黒な月と禍々しい影の群れだった。静寂の中、どこか懐かしい声が呼びかけてくる。


 「――ユウト、どうして……?」


 少女の声だった。手を伸ばしても、その姿は遠く霞み、すぐには触れられない。


 どこかで見覚えのある駅、白い息を吐きながら歩く夕暮れのホーム。制服姿のまま立ち尽くしていた自分――そして、向かいのホームで、泣きそうな顔をして手を振る少女。


 「約束、忘れないでね。」


 彼女の声が夕闇に溶けていく。


 僕はなぜ、その時、あの言葉を無視したのだろう。なぜ、伝えたい気持ちを飲みこんでしまったのだろう――。


 気がつくと手の甲の黒い痣が、闇の中で儚く光っていた。


 「ユウト、本当に伝えたかったことは?」


 夢の境界でクロの声がした。

それは、現実と夢を繋ぐ細い糸のように僕を引き戻す。


 ――本当に、本当に言いたかったこと。


 「ごめん」と、呟いた。「ありがとう」「好きだった」「ずっと、隣にいてほしかった」


 言えなかった千の言葉が、心の奥に澱(おり)を作る。


 黒い月の下、影がゆっくりと僕に近づいてくる。

その影の中から、もうひとつの“僕”が静かに現れる。


 「これがお前自身だよ、ユウト」


 クロの声が重なる。


 「受け止めてやれ。本当の未練も、恐れも、後悔も。そうしなければ、ここからは先に進めない」


 黒い影の“僕”がこちらをじっと見つめていた。


 ――本当の自分から、逃げていたんだ。


 涙が零れ落ちる。言葉にならない気持ちが胸を焼き尽くす。


 そして、夢の中でそっと“もう一人の自分”に手を伸ばした。


 その瞬間、闇がパッと晴れ、店の明かりが眩しく目に差しこんだ。



 「……おはようさん。ようやく戻ってこれたか」


 気がつくと、僕は月影のカウンター席にいた。

クロが相変わらず仏頂面で紅茶を差し出してくる。


 「今の夢……」


 「それが“お前だけの答え”だ」


 クロは紅茶を差し出しながら、いつになく優しい目をしていた。


 「さて、ユウト。“本当の未練”を書いてみな。魂の奥底に眠っていた言葉を、今度こそ綴ってやれ」


 僕はペンを取った。今度はもう、手は震えなかった。

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