第5章 月明かりの返事(へんじ)


 どこからか、かすかな音楽が聞こえてきた。グラスが触れ合い、紅茶の湯気が店を満たす。

特別な紅茶を口にした瞬間、不思議な温かさが全身に広がっていく。目の前の空間がわずかにゆがみ、淡い光が手紙を包みこんだ。


 「……これは?」


 僕の問いに、クロは薄く笑う。


 「“境界”を越えようとしている。お前さんの思いも、他の二人の思いも、今まさに現世(うつしよ)へ届こうとしてるんだ。」


 サラリーマンの男性は両手を強く握ったまま、小さく頷く。少女の目元には涙が浮かんでいる。


 「届くのかな……。ちゃんと、最後まで。」


 少女がぽつりとつぶやく。


 「この店を信じろ――いや、自分で書いた気持ちを信じるんだ。」


 クロはそう言うと、カウンターに小さな鈴を取り出して鳴らした。すると、窓の外から冷たい風が流れ込んでくる。


 突然、僕の胸元の「痣」――いや、あの黒い印がほんのり熱を帯びた。そして、どこか遠くから、くぐもった声が響いてくる。


 ――ユウト。

君の声、ちゃんと届いてるよ。


 「……え?」


 思わず顔を上げる。店内に、さざ波のような柔らかい光が満ちていく。サラリーマンの方は、静かに目を閉じて何かを聞いているようだった。少女は便箋を握りしめ、微笑んだ。


 「返事が――来る……!」


 クロが尻尾を軽く揺らしながら、僕たちを見ていた。


 「未練というのは一方通行じゃない。“言葉”や“思い”というのは、必ず誰かに触れて返ってくる。それが、ここの流儀さ」


 そのとき、どこからともなく聞こえた声が、僕の心をそっと満たしてくれた。


 【返事】


 ――もう泣いてないよ。大丈夫。

伝えてくれて、ありがとう。

あなたがいたこと、これからも忘れない。

さよならじゃなくて、おやすみ。またいつか。


 瞼の奥で、少女の微笑む顔が浮かぶ。胸の中の重りが、少しずつ溶けていくようだった。


 「……受け取れた、ような気がします」


 僕は小さな声でそう言った。サラリーマンも、少女も、ほっとした顔で頷いていた。


 クロが一度深く息をつくと、カウンター奥へと戻っていく。


 「だが、これで全部終わったわけじゃない」


 その背中に呼び止められた気がして、僕は首をかしげる。


 「まだ“本当の未練”を思い出していない奴が、一人だけ残ってるんだ。なあ、ユウト」


 ドキリとした。僕の名前を呼ばれて、胸の奥がざわつく。


 「君の心の底には、もっと深い思いが眠ってる。今夜は、そこへ降りて行く準備をしておくんだよ」


 その夜、初めて僕は夢の中で、黒い月と不吉な影を見ることになるのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る