第一章:植物園の魔女
最後の頼みの綱。
それは局の機密データベースの片隅に見つけた一つの名前だった。
『
かつて朱雀網の基礎設計に関わった伝説の天才プログラマー。しかしシステムが稼働するまさにその直前に全ての地位を捨て、忽然と姿を消した謎の人物。
彼女の経歴を調べると驚くべき事実が判明した。MITで計算機科学の博士号を取得後、わずか22歳でチューリング賞を受賞。量子アルゴリズムの分野で革命的な発見をし、現在の朱雀網の理論的基盤を築いた天才中の天才だった。
だが彼女は突然、学術界から消えた。表向きの理由は「個人的な事情」とされているが、真相は闇の中だった。
彼女の現在の居住地は都心にありながら、まるで忘れ去られた時代の孤島のように存在する古い植物園の中にある観測塔だという。そこは朱雀網のネットワークが唯一届かないアナログの聖域だった。
私は一人、その植物園へと向かった。
地下鉄を三度乗り継ぎ、最後は徒歩で辿り着いた場所は、まさに別世界だった。周囲の近代的なビル群に囲まれながら、そこだけが時の流れから取り残されたように静寂に包まれている。
入口の錆びた看板には「都立薬草園」とある。明治時代に設立された歴史ある施設らしいが、今では訪れる人もほとんどいない。
ガラス張りの巨大なドームに足を踏み入れた瞬間、むわりとした湿った土と植物の匂いが私を包んだ。それは朱雀網によって標準化された都市の無機質な空気とは全く異なる、生命そのものの匂いだった。
そこは論理ではなく生命そのものが支配する世界だった。見たこともない奇怪な形をした熱帯の植物たちが無秩序に、しかし力強く生い茂っている。ゴムの木の巨大な葉、ランの妖艶な花、サボテンの棘棘しい表面??それぞれが朱雀網の統制から外れた自由な生命力を放っていた。
私は植物学には詳しくないが、ここにある植物の多くが薬草だということが分かった。トウキ、カンゾウ、シャクヤク――漢方薬の原料となる植物たち。古代から人間の心と体を癒してきた自然の力がここに集められている。
観測塔はその緑の迷宮の中心に蔦に覆われてひっそりと佇んでいた。レンガ造りの古い建物で、おそらく大正時代の建築だろう。螺旋階段を上り重い木製の扉を開ける。
「……どなた?」
声は部屋の奥からした。
そこは円形の広い部屋だった。壁は床から天井まで全てが本棚で埋め尽くされている。哲学、宗教学、数学、物理学、そして詩集。ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ゲーデル、シュレーディンガー??人類の知的遺産がここに集積されていた。
そして部屋の中央。天窓から差し込む柔らかな光の中で、一人の女性が古い安楽椅子に深く腰掛け一冊の本を読んでいた。
月詠シヲン。
写真で見た二十年前の姿とほとんど変わっていなかった。おそらく四十代半ばのはず。だがその肌は少女のように透き通るように白い。銀色に近いプラチナブロンドの長い髪は編み込まれて肩に流されている。
彼女が身に纏っているのはフォレストグリーンのゆったりとしたリネンのワンピース。まるでウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を体現したような自然で機能的な美しさがあった。
彼女の存在そのものがこの植物園の空気と完全に溶け合って、まるで森の精霊か何かのように見えた。
私は自分の身分を明かし事件の概要を説明した。彼女は本から顔を上げることなく静かに私の話を聞いていた。
「……それで私に何を?」
「あなたの知見をお借りしたい。あなたはこの事件の構造が見えるはずだ」
シヲンはようやく本を閉じ、ゆっくりと私を見た。その瞳は深い深い紫水晶の色をしていた。そしてその奥には人間の理解を超えた何千年もの叡智が宿っているかのようだった。
「構造、ね」
彼女は小さく呟いた。
「あなたは物事をいつもそうやって捉えるのね、来栖アキラ警部」
彼女は私の名前を知っていた。そして彼女の視線は私の心の鎧を一枚、また一枚と静かに剥がしていくようだった。
私は初めて他人の前で裸にされるような感覚を覚えた。それは不快なはずなのに、なぜか少しだけ心地よかった。まるで長い間着込んでいた重いコートを脱いだ時のような解放感があった。
「手を見せてもらえる?」
突然の申し出に戸惑いながらも、私は素直に手を差し出した。シヲンは私の手のひらを取り、指先で軽くなぞった。
「やはり」
彼女は微笑んだ。
「あなたの手にはちゃんと血が通っている。朱雀網に完全に支配されていない証拠よ」
その瞬間、私は電撃のような感覚を覚えた。彼女の指先から伝わる温かさが私の腕を伝って心臓まで達したのだ。朱雀網による標準化を免れた生の感覚だった。
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