第3話
ゴールデンウィークが明け、学校は再び日常の活気を取り戻していた。三年生にとって、長期休暇の余韻に浸っている暇はない。受験という大きな目標が、すぐそこまで迫っている。
放課後、悠真と花は図書館の、一番奥にある自習スペースに向かっていた。広い窓から入る光が、整然と並んだ本棚を照らし、穏やかな空気を生み出している。
「ここなら、集中できるね」
花が、そう言って微笑んだ。悠真は、その言葉に頷きながら、向かい側の席に座った。二人で図書館に来るのは、学級委員の仕事で資料を探す時以来だ。それが今は、二人の「デート」であり、「勉強会」でもある。少し気恥ずかしさを感じながら、悠真は持ってきた参考書を机に広げた。
「花は、吹奏楽部の練習で疲れてるんじゃないか? 部活が終わってからだと大変だろ」
「ううん、大丈夫。部長としての仕事も少しずつ後輩に引き継いでいるから。それに、悠真くんとこうして一緒にいられる時間が、今の私には一番大切だから」
花は、少し照れたように、しかしはっきりとそう言った。その言葉に、悠真の心臓は再び、温かい鼓動を刻む。真面目で、いつも完璧であろうとする花が、素直に感情を表現してくれたことが、何よりも嬉しかった。
二人は、それぞれの参考書を開き、勉強を始めた。花は数学の問題集を解き、悠真は情報工学の専門書に目を通す。やがて、花がペンを止めた。難しい問題にぶつかったらしい。
「悠真くん…この問題、どうすればいいか、ちょっと分からなくて…」
花が、申し訳なさそうに、悠真に問題集を見せる。それは、数列と漸化式に関する、少しひねりのある応用問題だった。悠真は、花の問題集を覗き込み、一瞬で問題の構造を理解した。
「これは、階差数列の漸化式を使って解くんだ。まず、この式をこう変形して…」
悠真は、自分のノートに丁寧に解説を書き始めた。彼のペンの動きは流れるようで、論理的な思考がそのまま文字に置き換えられていくかのようだった。花は、そんな悠真の横顔を、ただじっと見つめていた。眼鏡の奥にある、真剣な眼差し。少し開いた唇が、滑らかな口調で解説を紡いでいく。
悠真の解説は、とても分かりやすかった。難しい数学の概念も、彼の口から発せられると、まるで魔法のように明快に、そして論理的に整理されていく。花は、彼の解説を一つずつノートに書き写しながら、心の中で、改めて彼への尊敬の念を強くした。
「…悠真くんって、本当にすごいね」
解説を終えた悠真に、花は感嘆したように言った。
「そうか? 普通だよ」
「普通じゃないよ! 私はこんなに複雑な式を、あんなに簡単に解けない。悠真くんが、理数系に強いって知ってたけど、改めて…本当に尊敬しちゃう」
花は、本当に心からそう思っているようだった。彼女の瞳は、悠真の知性に対する、純粋な憧れと敬意に満ちていた。その視線に、悠真は少し気恥ずかしくなりながらも、胸が熱くなるのを感じた。
「私も、悠真くんのようになりたいな…」
花は、そう呟くと、悠真の目をまっすぐに見つめた。その瞳に、恋愛感情とはまた違う、ひたむきで、真剣な光が宿っている。
「…花は、今のままで十分すごいよ。吹奏楽部の部長として、みんなをまとめて、学級委員の仕事も完璧にこなして…俺なんか、花のほうがずっと尊敬してる」
悠真は、花の手をそっと握り、慰めるように、いや、心からそう思っていることを伝えるように、優しく言った。花は、悠真の温かい手に触れ、はっとして、少しだけ顔を赤らめた。
「…ありがとう、悠真くん。そう言ってくれると、少しだけ、頑張ろうって思える」
それから、二人の勉強会は、花が悠真に質問し、悠真がそれに答えるという形で進んだ。しかし、その間、二人の手は、机の下でずっと握られたままだった。握りしめられた手から伝わる温かさは、互いの存在を、そして互いの心の支えを、静かに、しかし確かなものとして感じさせてくれた。
それは、単なる勉強会ではなかった。互いの知性に惹かれ、尊敬し合い、そして相手の存在が、自分の頑張る理由になる。そんな、不器用ながらもまっすぐな、二人の愛の形が、この図書館の静かな空間で、ゆっくりと育まれていた。
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