桜ヶ丘学園の恋人たち

舞夢宜人

第1話

 新学期の喧騒が、遠い潮騒のように耳に届く。放課後の教室は、先ほどまでの活気が嘘のように静まり返っていた。佐藤悠真は、窓から差し込む夕陽に目を細めながら、向かいの席で鈴木花がまとめている書類の山をぼんやりと見ていた。


「悠真くん、明日の学年集会の資料、これで大丈夫かな?」


 花は、真面目な面持ちでそう尋ねた。悠真は書類に目を落とし、内容を確認する。一切の誤りも漏れもない。完璧だった。


「うん、完璧だ。さすがだね、花」


 高校三年生になり、花が学級委員長に選ばれたのは、これで三度目だった。そして、その隣に座る学級委員のパートナーとして、悠真が指名されたのもまた、三度目だ。


「ありがとう。でも、悠真くんがいつも助けてくれるからだよ。私一人じゃ、こんなにスムーズにはいかない」


 花は控えめにそう言ったが、悠真は知っていた。彼女の周到な計画性、細やかな気配り、そして何よりも、皆に頼られ、慕われる人柄が、このクラスを、そして学年全体を動かしているのだということを。


「そんなことないよ。それにしても、3年連続で花と学級委員をやることになるとは思わなかったな」


「そうだね。去年の委員決めは、ちょっと焦っちゃったけど」


 去年、学級委員を決める時、花は少し迷っていた。しかし、誰よりも真面目に、誰よりも一生懸命にクラスの仕事に取り組む彼女の姿を、悠真は知っていた。そして、悠真自身もまた、彼女のそばでなら、自分の役割を全うできると信じていた。だから、花が迷っているのを見て、悠真は思わず手を挙げたのだ。


「私はね、知ってたよ」


 花が、ふいに笑みを消して悠真を見つめた。その真剣な眼差しに、悠真は少し戸惑う。


「何が?」


「悠真くんが、私を助けてくれるってこと。だから、今年も悠真くんを指名したんだ」


 花の声は、昼間の喧騒とは違う、とても静かで、心地よい響きを持っていた。悠真は、その言葉の意味をすぐに理解することができなかった。ただ、彼女の真剣な瞳から、普段は見せない、もっと深い感情が垣間見える気がした。


「私ね、悠真くんのこと…」


 花はそこで言葉を区切り、書類の山から目を離して、悠真の顔をじっと見つめた。その視線に、悠真の心臓が不規則に鼓動を始める。


「3年間、ずっと尊敬してた。いつも真面目で、でも無理はしなくて、私のことを一番に考えてくれて…」


「それは、学級委員のパートナーとして…」


 悠真が言葉を遮ると、花は首を横に振った。


「違う。パートナーとしてだけじゃない。男の子として、悠真くんのことが、ずっと…」


 花は、ためらいがちに、しかしはっきりと、告げた。その告白は、悠真の心に、春の嵐のような衝撃をもたらした。学級委員の仕事を通して築き上げてきた、真面目で、尊敬し合う関係。それが、今、一つの言葉によって、全く新しい形へと変貌しようとしていた。


「悠真くん。私は、悠真くんのことが好きです。…私と、付き合ってくれませんか?」


 夕陽が花と悠真を照らし、二人の影を長く、細く、床に落としていた。教室には、ただ二人の呼吸音だけが響いている。これから始まる高校生活最後の年。その始まりに、二人の関係は、大きく変わろうとしていた。


「悠真くん…」


 花は、言葉を待つ悠真の顔を、不安げに見つめていた。その瞳は、真面目な学級委員長のそれではなく、ごく普通の、恋する女の子の揺れる感情を映している。完璧主義な彼女が、この告白にどれだけの勇気を振り絞ったのか、悠真には痛いほど伝わってきた。彼女が抱えるプレッシャー、そして誰にも見せてこなかった心の奥底の不安。それらをすべて知っているからこそ、悠真は、ただの形式的な返事をするわけにはいかないと思った。


 悠真は、花の手の上に、自分の手をそっと重ねた。花の手は、書類をまとめるために使われていた、少しひんやりとした、でも柔らかな手だった。


「…ありがとう、花。俺も、花が好きだ」


 悠真の言葉に、花は目を見開いた。その表情は、驚きと、そして安堵で満たされていた。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、きらりと光って書類の上に落ちた。


「え…ほんとに?」


「うん。本当に。学級委員として、パートナーとして、ずっとそばにいてくれて、俺はすごく心強かった。花がいてくれたから、俺も頑張れたんだ。…でも、それだけじゃなかった。俺は、いつからか、真面目に努力する花を、一人の女の子として見るようになっていた」


 悠真の言葉は、普段感情を表に出すのが苦手な彼にしては、驚くほど素直なものだった。花は、悠真の言葉を噛みしめるように聞きながら、さらに涙を流した。それは、告白が成功した喜びだけではなかった。今まで誰にも見せられなかった、完璧な自分を演じるための苦悩が、悠真の言葉によって少しずつ溶かされていくような、そんな感覚だった。


「…悠真くん、ありがとう。私、本当に嬉しくて…」


 花は、涙を拭うことも忘れ、ただただ悠真の手を握りしめた。悠真は、そんな彼女のありのままの姿が、今まで見てきたどの花よりも愛おしく思えた。完璧な委員長でも、立派な部長でもない、泣き虫で、少し臆病で、それでもまっすぐに自分の気持ちを伝えてくれた、目の前の彼女。そのすべてを、彼は受け入れたいと思った。


 悠真は、花の手を握ったまま、立ち上がった。


「…もう遅いし、送っていくよ」


「うん…」


 花は、頷きながらも、涙で潤んだ瞳を悠真に向けたままだった。悠真は、そんな彼女の姿を、もう一度愛おしく思い、ゆっくりと顔を近づける。花は、目を閉じ、そっと唇を突き出した。


 唇が触れ合う。それは、体育祭の喧騒や、学級委員の仕事の緊張とは全く違う、優しくて、でも確かな温かさだった。二人の間に流れる時間は、ゆっくりと、そして甘く溶けていく。


 新しい恋が始まった。それは、ただの甘い青春の始まりではない。これから二人が向き合う、それぞれの葛藤、そして「理想の男女交際」を模索する、長い旅の始まりだった。

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