301号室 尾形 澄江(四十六) 職場のパソコンに残されていた音声データ
私の姉の話です。
私と五歳年の離れた姉は、当時同居していた祖母にとても可愛がられていました。
祖母は毎朝、起きてきた姉に会うたびに言っていたことがあります。
「今日も背が高くなったねぇ」
いくら子供でも、毎日顔を合わせてたら、ちょっとやそっとの変化には気づかないと思うんですけど…。それでも祖母は姉に“背が高くなったねぇ”と言い続けてきました。
私が六歳の時、祖母は風邪をこじらせて肺炎になってしまい、入院してそのまま亡くなりました。
姉と二人でお見舞いに行った時、祖母はまた言っていました。
「背が高くなったねぇ。このままじゃ、天井に頭がついちゃうねぇ」
それが姉と祖母の最後の会話だったと思います。
祖母が亡くなってからしばらくして、姉がよく母に怒られるようになりました。
どうやら姉は学校で行われた身体測定のとき、わざと身体を屈めて背を低くしようとし、保険の先生に注意されてもそれを止めなかったそうです。最初はただの悪戯だと思っていたのですが、姉は徐々に日常生活の中でもずっと背筋を曲げ、中腰で、肩も狭め、無理やり身体を縮めたような姿勢で過ごすことが増えていきました。
一度姉に、なぜそんな歩き方しているのかを訊ねたことがあります。
姉は、“私が大きくなると、天井に頭がついちゃうから…”と答えました。
姉の姿勢の悪さは、それからもずっと治りませんでした。いつの間にか背骨はおばあさんのように折れ曲がり、頭は肩より下に垂れ、顔は下ばかりを向き、膝は前に突き出しまま、全身がまっすぐ伸びなくなっていました。
数年前までは元気で明るくて、クラスの人気者だった姉は、今では誰からも話しかけられることも無く、時には授業も受けずに帰宅するようになっていました。
姉の姿が変化していくうちに、私の中には、これから姉はどうなっていくんだろうという、子供らしいドキドキするような好奇心が芽生えてきました。
父と母は姉にコルセットをつけました。姿勢を直すためですが、これがかえって逆効果で、強制的に姿勢が良くなった姉は、ノイローゼのようになり、家の天井に怯えるようになりました。
「天井が迫ってきている」「天井が怖い」「今にも頭が電球にぶつかってしまうんじゃないか…」
そう喚いては半狂乱で暴れまわり、ついに手を地面から離さず、四つん這いで生活し始めました。
私はずっとペットが欲しかったので、我が家に新しい家族が増えたような、今まで行ったことが無い街を歩いているような高揚感を得たような心地でした。
姉は学校に行けなくなり、代わりに病院に預けられるようになりました。
病院でも、姉の生活は変わりませんでした。
最初は犬や猫のように四つ足で生活していましたが、年を重ねるにつれ、私が十歳になったころには、腹ばいで生活できる様になりました。
コルセットや強制治療はもう意味がありませんでした。
姉は手足をぴたりと閉じ、肩をうねうねと揺さぶって床を這いずり周り、その場でご飯を口だけでぺしゃぺしゃと食べ、身体をを丸めて眠る、およそ人間とはかけ離れた存在になっていました。
私はその姉の姿が何とも愛おしく、可能な限り病院に通い、姉にご飯を食べさせ、学校での出来事を語り、姉妹で笑いあっていました。
姉は私に“病院はつまらない。すみちゃんと一緒に学校に行きたい”とよく話していました。
私は、こんなに面白い生き物を外に連れ出すと、他の人に取られてしまうと思って、明るい返事はしつつ、姉にはずっと病院の中にいて欲しいと思っていました。
姉は何度も脱走を企ててはその度に捕獲され、拘束具で全身を縛られていました。姉の身体は突き出した部分が徐々に無くなっていき、首と肩は見分けが付かなくなり、それこそ本当に蛇のような、洗練された形になっていきました。
そしてついに私が十五歳になった時、姉は病院から姿を消しました。
お医者さんや警察の人たちと一緒に、監視カメラに映った姉の姿を見ました。身体中に巻きつけられた拘束具を歯でかみちぎり、深夜の病院の床を這い、看護婦が見ていないわずかな隙をついて施設の窓から飛び出した姉の姿は、まさに生命力の塊といった印象で、私にはとっても美しく、輝いて見えました。
両親は姉を探しませんでした。医者も、おそらく長くは生きられないと言いました。私はあんなに素晴らしい動物が、そう簡単に死んでたまるかと無性に腹がたち、また姉に会いたいという寂しさで気が狂いそうでした。
姉の死体はまだ見つかっていません。
私は今でも街中を歩いているときに、草むらが風もないのにザワザワと揺れたり、路地の奥からじっと何かがこちらを窺う目線を感じたときに、“姉はまだ生きていて、私を見守ってくれてるんだな”という安心感に包まれます。
最近、私の住んでいるアパートの天井裏からよくゴソゴソという何かが這いずり回る音が聞こえます。
今も耳を澄ますと、ほら。
(ずりん、ずりんっと、水気を含んだ大きなゴミ袋を引きずるような音)
私はその音を子守歌代わりにして、毎晩眠りにつくんです。
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