第9話 暗闇

 暗闇の中を走っていた。

 つないだ白い小さな手だけが暗闇の中でかすかに見えている。

 手をつないでいないほうの右手を壁につきながら、その感覚だけで歩くべき道を探っている。


「しんぱいすんな。おれがおとーちゃんをかならず見つけ出してやるからな」


 返事はなく、ただ自分の声だけが暗闇の中にこだまする。


 もうどれくらい歩いているのだろうか。おとーちゃんを見つけるどころか完全に道に迷っている。出口さえ分からなくて、本当ならまず自分がここを出ることを優先して考えるべきだということはわかっているのに、小山内自分は決してそれを口にしようとはしない。


 きっと女の子の前で見栄を張っているのだろう。


 前方に小さな明かりが見えた。きっと出口だ。おとーちゃんを捜すことを少女にあきらめさせ、いったんここから出る提案をしなければならない。

 うまく自分に少女を納得させることはできるだろうか


 ふりかえり、つないだ白い手の先を見る。出口が近いおかげでその手の先の少女の全体像がぼんやりと見える。

 

 十歳くらいの少女。黒い髪に白いワンピース。白い顔はすすけてしまって涙でぐしゃぐしゃに濡れていて、つないでいないほうの細い腕でその涙をぬぐっている。


「だいじょうぶだ。ほら、先に出口が見えるだろ。たぶんおとーちゃんも外にいると思う」


「いないよ。おとーちゃんはもっとおくにいるから」


「そんなことはないさ。いったん外に出よう。ほら、目を開いて」


 少女が涙をぬぐう手をどかし、閉じた両眼を開いた。


 そこに瞳はなく、真っ黒な空洞がふたつ、ぽかりと開いていた。まるでおれをすいこんでしまうブラックホールのように。


「ひっ!」


 少女の手を振り払い、出口に方へ一歩後ずさるが、その引いた手をまた白い手が掴む。


 その白い手は少女の手ではない。恰幅のいい血管の浮き出た大人の男の手だ。


「やめろ!」


 今度は別の手が足首を引っ張り、おれはその場に転げてしまった。


「やめろって!」


 次々に襲い掛かる白い手で体のあちこちをしっかりつかまれ、逃げることはおろか、暗闇の方へと引きずられていく。


「た、たす、け、て……」


 半べそを書きながら訴えるが、誰もそれに応えることはなく『ヴヴゥ』だとか、『あがぁ』といったうめき声だけが響く。


 引っ張られていく暗闇の奥の方には青白い小さな焔がひとつ、ふたつ、みっつ……どんどんと増えていき、やがてそれらがひとまとまりに集まり、大きな赤い焔となり通路を照らす。


 自分の体を引っ張る無数の腕が煤にまみれ、炎に焼けただれた音たちのものだとわかる。


 どうにかたすかる方法はないかともう一度出口の方を見る。


「うそ、だろ……」


 その先に見える出口はその先にいる男たちの手によって大きな鉄の板で覆われる。出口からの光は消え、差し迫った炎の明かりだけが通路を照らす。


 大きな真っ黒に焼けただれた男たちが小さな自分を覆いつくす。


「やめてくれ!」















 




















 現実世界の静かな畳敷きの部屋に野太い「やめてくれ」という自分の声で目を覚ます。


 敷かれた布団とTシャツの背中側とが生ぬるい汗でぐっしょりと背中に張り付く。


 まったく。田舎の丘の上はちょっと涼しいからといって油断してエアコンをつけずに眠ったのだが、ふと目を覚ませば都会と変わりないくらいの湿気と温度だった。

 

 しかし、ちょっと暑いからといってまさか炎で焼かれる夢を見るなんて、夢というものはなんと大げさなんだろうと思う。



 昨晩花火を見終わり、それから家の中で受験勉強を開始した。

 陽菜はなんだかんだとはいえ、地元では最難関の国立大学に通う現役大学生で、受験勉強を見てくれるというのはありがたい話ではあった。


「達哉、さっきからぜんぜん集中できてない。そんなんじゃあ東京の大学になんて現役合格は難しいわよ」


 陽菜の指摘はもっともだった。さっきであった浴衣の少女のことが気になって集中できないということは言うまでもない。


「まあ、無理なら無理でどこか地元の大学に進路を変えてくれた方があたしとしては助かるんだけどね」


「そんなことになったら、きっとまだ何年もこうやって先輩に連れまわされることになるじゃないですか」


「うれしいでしょ?」


「いや、いい加減勘弁してほしいです」


「本当は嬉しいくせに。あ、もしかして勉強に集中できないのって、セクシーなお姉さんとの距離が近すぎるせいだったりするのかしら? あるわよね、そういうビデオ」


「セクシーなお姉さん? どこですか? どこにいるんですか?」


 陽菜は両手で僕の顔を挟み、自分に向ける。


「勉強に集中できないなら、一回ヌイておいた方がいいのかも?」


 そのあけすけな表現に、とくんと胸が鳴る。それこそよくあるセクシービデオの展開だ。


「冗談、ですよね?」


「え、もしかして勘違いしてる? 勉強を続けるために、一度自分でヌイておきなさいって言おうとしたんだけど?」


「いや、仮にも女性である陽菜にそう言われて、『一回抜いたので勉強に集中できます。続きをやりましょう』っていうのは言いにくいですよ。さすがに」


「それって、あたしにヌイてほしいって言っているの?」


「いや、そうじゃないです。つか、陽菜からそうストレートな表現を受けるのは慣れていなくて……」


「まあいいわ。今日はこのくらいにして一旦寝ましょう。その代わり明日の朝は港の方に降りて情報収集するわよ」


「わかりました。もちろん手伝いますよ。あ、それで、大家の方の名前、教えといてもらっていいですか?」


 陽菜は「うん?」と呟いてから、「大家の名前が知りたいの? それとも、あの美人な娘の方? ごめんね、それならあたし、娘さんの方の名前聞いていないわ」と言った。


「やめてくださいよ。ほんと、そういうんじゃないですから。明日情報収集するにしても、大家さんの名前を出して、今ここに滞在しているからと言った方が地元の人に対しても信頼があるだろうし、あとになって何か思い出した時も、ここに情報を回してくれるかもしれないでしょ」


「あはは、そういうことか。確かにそれはそうね」


「はい。まったくです」


 少女の名前ならわざわざ聞くまでもない。僕の記憶が間違っていなければ、少女の名前は『志乃』のはずだ。名字までは憶えていないのか、あるいは初めから聞いていなかっただけかもしれない。

 大家が『細川詩織』らしいので、きっと少女の名前は『細川志乃』で間違いないだろう。



 


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