第3話:喪失を超える絶望
譲は、金という言葉を失った翌朝、呆然とリビングの床に座り込んでいた。
手元には、昨日ATMから吐き出されたままの、認識されないカード。
もはや、この社会で生きる術を失ってしまったような、途方もない絶望感が胸を締め付ける。
しかし、そんな譲の頭上を、またしても神の声がよぎった。
「次は何を差し出す?」
譲は、乾いた唇から辛うじて「家」と呟いた。
もはや家を維持することもできない。
どうせ失うものならば、自分の意思で差し出すことで、琴葉の命を繋ぎたい。
その文字が頭の中から消えた瞬間、譲が住んでいたはずのアパートの一室が、霧のようにぼやけていった。
目の前の壁も、床も、天井も、すべてが曖昧な輪郭を帯び、やがて何もかもが消え去った。
気づけば彼は、見知らぬビルの屋上に立っていた。
足元は冷たいコンクリート。
周囲は冷たい風が吹き荒れている。
「これが琴葉のためなんだ…」
譲は自分の心にそう言い聞かせた。
しかし譲が失ったのは、単なる住まいとしての家だけではなかった。
彼が琴葉と育んできた、温かい日々の思い出。
二人で笑い合った食卓、他愛ない会話を交わしたリビング。
それらすべてが、譲の記憶から消え失せてしまった。
譲は再び回想に逃避する。
琴葉の病状は、日を追うごとに悪化していった。
精密検査の結果、彼女の病状は脳腫瘍が原因であると診断された。
しかも、腫瘍は言語野の近くにあり、それが言葉を奪っている原因だという。
日に日に大きくなる腫瘍は脳のあらゆる箇所を圧迫し、生死にも大きく関わる状態になりつつあった。
譲は毎日、病院に通い、言葉を失っていく琴葉に寄り添った。
彼女の指が、もはや譲の手を握る力さえ失っていく。
「琴葉の声がもう聞けないなら、音はなくても良い」
譲はそう思った。
彼女の声がかすれ、やがて言葉を発することも難しくなっていく姿を見るのが辛かった。
そして次の夢の中で、また神と対峙する。
神は、次に差し出す言葉を問う。
譲は迷わず「音」と答えた。
琴葉の声が聞けないなら、他の音などいらない。
その言葉が消えた瞬間、譲の世界から、すべての音が消え失せた。
現実の譲は、朝、目が覚めた瞬間にその異変に気づいた。
鳥のさえずりも、車の走る音も、何も聞こえない。
世界が突然、無音の空間に変わってしまった。
彼はパニックに陥り、自分の耳を塞ぎ、何度か叫んでみた。
しかし、その声すら、彼自身には届かなかった。
彼は自ら選んだ選択の先にある現実に絶望した。
住む場所を失い、音まで失った。
この世界に、自分という存在が確かにいることすら、感じられなくなりそうだった。
それでも、譲は琴葉のベッドの横に座り、彼女の手を握りしめる。
音のない世界で、彼女の存在だけが、譲をこの世界に繋ぎ止める唯一の希望だった。
海外での治療も候補にはあがるものの、専門医によると、手術には莫大な費用がかかるという。
譲はすでに財産を失い、治療費を工面する術はすでになかった。
譲は、言葉と音のない世界で、彼女の顔を見つめ、ただ涙を流すことしかできなかった。
(第3話 終)
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