第2話:喪失の混乱
逸見譲が神と交わした取引は、「友」という言葉の喪失で幕を開けた。
親友の顔も名前も思い出せない。
まるで彼の人生から、その存在が最初からなかったかのように消え去ってしまった。
譲は混乱と恐怖に苛まれながらも、琴葉の命が延びたという事実に縋るしかなかった。
その翌朝、譲は再び文机に向かった。
次の言葉を差し出さなければならない。
琴葉の命のためなら、どんな言葉でも差し出すと決めたはずなのに、ペンを握る指が震える。
昨日から何も食べていないせいか、力が入らない。
いや、これは恐怖だ。
迷った末、譲はペン先で原稿用紙に「夢」と書いた。
小説家として成功し、琴葉と結婚して、温かい家庭を築く。
それが彼の「夢」だった。
しかし、今の自分には、そんな未来を想像する資格はない。
「夢…」
その文字を消した瞬間、譲の心に空虚な穴が開いた。
琴葉と手を繋いで歩く未来、子供の笑い声が響く家庭。
そんな光景が、譲の心から消え去っていく。
彼の頭の中には、ただ無機質な壁と天井があるだけの、何の感情も湧き上がらない空間だけが残された。
そして譲はこの喪失が始まる少し前を回想していた。
この数ヶ月、譲は琴葉の病状と真剣に向き合っていた。
彼女は精密検査の結果、脳に影があることが判明した。
まだ初期段階だというが、すぐに入院することを勧められた。
医師の口ぶりから、それが深刻な病気であることは明らかだった。
治療には莫大な費用がかかる。
譲は、作家としての最後のプライドを捨て、なりふり構わぬ仕事に手を出していた。
中身のない芸能人のゴーストライター、ゴシップ記事の執筆…。
「譲くん、最近顔色が悪いよ」と心配してくれる人もいたが、彼らに金銭的な援助を求めることはできなかった。
いや、正確には、誰に助けを求めればいいのかわからなくなっていたのだ。
琴葉の入院からかなりの月日が経ち、譲は預金残高を確認した。
琴葉の入院費用を支払ったら、もうほとんど残っていない。
そんな絶望的な回想を繰り返す中、譲は神から次の言葉を問われた。
「次は、何だ?」
譲は迷わず「金」と答えた。
もはや自分の手元には、大した金など残っていない。
失うものなどないと思っていた。
夢から醒めると、譲はパソコンに向かい、銀行のサイトを開いた。
預金残高を確認しようとした、その瞬間。
「っ…え?」
画面に表示されたのは、口座番号が違います、というメッセージ。
譲は自分の目を疑った。
何度もログインし直そうとする。
ATMにも行ったが、銀行のカードはおろか、クレジットカードすら使えない。
わずかながら残っていたはずの生活費、そして万が一のためにと残しておいた貯金。
それらすべてが、跡形もなく消え失せていた。
その日の譲は、まるで抜け殻だった。
言葉を失うたびに、自分の人生から大切なものが少しずつ削り取られていく。
人の顔を思い出せなくなり、未来への希望を失い、そして、生活を支える最後の砦であった、先立つものすら失った。
すべては、琴葉のため。
彼女の命が一日延びたと思えば、安い代償だ。
そう自分に言い聞かせるが、譲の心は疲弊しきっていた。
彼はまた頭の中で回想を続ける。
「脳に影がある。腫瘍の可能性が高い」
医師から告げられた言葉が、譲の頭の中で反芻される。
その影が、琴葉の言葉を奪い始めているという。
何としても彼女を救わなければならないと、改めて決意した。
たとえ、自分のすべてを差し出すことになっても…。
譲は、この荒涼とした現実の中で、明日差し出す言葉を心の中で探していた。
それは、彼が言葉を失いながらも、琴葉への愛を失うまいと足掻く、長く苦しい闘いの始まりだった。
(第2話 終)
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