十六夜の間
翌日。
ラロワが帝妃に謁見する夜になった。
宦官に与えられた服に着替え、化粧を施し、不本意ながら香水をかけた。ラロワはこの匂いがどうも苦手である。準備が整うと、部屋の外でレビドが待っていた。ラロワを頭のてっぺんから爪の先まで値踏みするような目で見た後、
「行くぞ」
と一言言い捨て、先に立って歩き出した。好きになれる要素がない、とラロワは改めて思った。渋々ながらレビドの後を追おうとすると、そこへチミスが現れた。
「なんだ?」
レビドが咎めるように言う。
「いえ、あの……、ラロワくんに……、」
「手短かに済ませろ」
「ありがとうございます。あの、ラロワくん……」
「なんだよ、おまえ……」
「あの……、」
そう言ったきり、次の言葉が出てこない。
「早くしろ」
レビドが急かす。おまえは黙ってろ、と心の中でラロワが呟く。
「あの……、護身術。ボク、全然覚えてないよ」
「はあ? 昨日、全部教えたじゃねぇか」
「一日やっただけじゃ覚えられないよ。だから……、また明日、教えに来てよね」
「……行かねぇよ」
「え?」
「甘ったれんなクソガキ! 俺はおまえの先生でも何でもねぇ。忘れたんなら、自分で護身術でも何でも開発しろ。おまえは……、一人でも強く生きていけるようにしろ」
チミスは何か言いかけたが、やめた。そして、言いかけた言葉の代わりに、言った。
「うん……」
それで二人の会話は終わりとなった。
「行くぞ」
レビドが先に立ったので、ラロワは後を追った。しばらく歩いて振り向くと、チミスはまだラロワの部屋の前にいた。
ラロワは、案外鋭いかもしれない、と思った。
「俺は、」
レビドが前を見て歩いたまま、口を開いた。
「差し伸べられた手を払う奴が嫌いだ」
俺だって嫌いだ、とラロワは思ったが、やはり口にはしなかった。
オジエが夜の後宮内を見回っていると、ラロワの部屋に灯りがついているのを認めた。確かラロワは「十六夜の間」に行っているはず。訝しんだオジエは部屋に向かい、注意深く中を覗き込んだ。
そこにはチミスが一人、椅子にちょこんと腰掛けていた。
「何をやっているのですか?」
そのオジエの一言に、チミスは文字通り飛び上がった。
「わぁ! ああああの、すみ、すみ、すみ、すみませんんんー……」
チミスは土下座せんばかりに頭を下げた。
「いや、そんなに驚かなくても……。私はお化けではないのですから……。ところで、ここはあなたの部屋ではないでしょう? ご自分の部屋にお戻りください」
「は、はい……」
「なぜここにいたのですか?」
「はい、あの……友達なんです」
「心配だったのですか?」
「あ……、はい……」
「ふぅむ……。今日は、ラロワ様が初めて帝妃様の御前に参上する日でしたな」
「はい……」
「まぁ、その……、帝妃様は、なかなかにしてご趣味が難しいですからなぁ。お眼鏡にかなわなかったとしても、そう気に病むことはありません。そもそも、この後宮が創設されてから、まだ一人の淑子様もお気に召されていないのですから」
「はぁ……」
そう言って、オジエはラロワの帰りを待つチミスを励ましたが、チミスの心配はそこではなかった。
なにがどう心配なのか、その正体はわからなかったものの、なんとなくチミスはもうラロワには会えないのではないだろうか、という予感めいたものに
明るい夜だった。満月を過ぎてからまだ二日である。夜の後宮を照らすには十分に明るいと言えた。そんな月明りの下、灯りの落ちた中庭をラロワはレビドの後ろに従って横切った。
「十六夜の間」は後宮の一番奥、つまり帝妃の宮殿に一番近いところにあった。瀟洒な建物が多い後宮の中でも一際瀟洒である。
基本的には独立した建物であるが、宮殿とは真っ直ぐに廊下で繋がっている。後宮で唯一外部と繋がった建物だ。宮殿はそこから更に天守閣に繋がっているので、見る角度によっては「十六夜の間」から天守閣まで繋がっているようにも見える。
レビドが呼び鈴を鳴らす。
「ここからは一人だ」
そう告げた後、重そうな扉を開けた。目で「入れ」と合図する。口で言え、と思いつつ、ラロワは中へ入った。
淡く、香の匂いが漂っていた。どことなく、澄んだような香りだった。この匂いは嫌いじゃない。ラロワはそう思った。
入ると、いきなり幅広の階段になっていた。履物を脱ぎ、全部で八段、上っていくと部屋があった。
薄暗く、細かいところまではよくわからなかったが、調度品はそれほど多くない。その代わり、天井から紗が幾つもかかっており、立ちこめる香の煙と相まって、全体に霞んだように見える。ラロワは思わず、目をこすった。
部屋の中央に寝台がある。その寝台には天井から垂らされた紗が特に多くかかっていて、中がよく見えない。
しかし人影が透けて見えた。あれが帝妃か。
ラロワは手近にあった蝋燭を持って寝台へ向かった。
「誰?」
という紗の向こうから人の声がした。帝妃の声だ。その姿を見る前に声を聞いた。鼻にかかったような、裏声気味の高い声だ。
しかしラロワはその声には応えなかった。無言で、無造作に紗を開いた。
蝋燭の明かりが照らした寝台の上には、幅の広い裾で顔を隠した女がいた。帝妃だ。
「あの、明かりを、消していただけますか……」
消え入りそうな声だった。
「すみません」
言ったものの、ラロワは蝋燭を消そうとしない。
「帝妃様。御命、頂戴致します」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます