第9話 ごきげんよう、グレゴール
フリードに『話しかけると良い』と聞いてから頻繁に話しかけているが、反応が返ってくることはない。
――本当に開くようになるのかしら。
半信半疑だけれどほかに手立てもないけれど、アニカは声掛けを続けていた。
「え~と、なになに……『名前を付けて呼んであげるのも効果的です』……なるほど?」
変な方向に真面目なアニカは『楽しい園芸』という初級者向けの本を片手に頑張っていた。
フリードから話を聞いてからすぐに本屋で買ったのだが、なかなか分かりやすい。
そういえばお姉様も庭の花に「綺麗なお花ね~」なんて声をかけていた。
「グレゴールさん、聞こえますか~?」
文言を変えてみても完全無視である。
本当に元人間なのか疑いたくなってしまう。
アニカはせっかちだ。
コツコツと努力もできるのだが、結果がすぐに出ないと気になってしまう。小説も複数巻まとめ買いをして一気読みするようなタイプである。
だからこの状況を続けるのは到底無理だった。
「……聞こえてまして!? 無視はメンタルに来ますわっ!」
「――ええい、五月蝿い! 五月蠅いわっ!」
何度目かもわからない話しかけにやっと
机の上に置かれていたはずの本に光が集まる。
周囲に風を発生させながらバサバサとページを巻き上げ、そして宙へを浮かぶ。本の真ん中あたりを開いた状態で、そこから人の上半身だけが出ていた。
白髪を綺麗に整えた紳士で、髪と同じ色の髭を生やしている。アニカの両親よりも年上……五、六十歳ぐらいだろうか。
「ごきげんよう。私はアニカ・リーデルガルドと申します。貴方は――」
お母様からのスパルタ教育のおかげで貴族の淑女としての振舞いは身に沁みついている。アニカはカーテンシーをして挨拶をするも、彼はふんっとアニカにそっけない態度を取った。
「お前さんの声が五月蝿くてかなわんから出てきただけじゃ! 勘違いするでないわ!」
急にツンデレヒロインみたいなことを言い出した彼にアニカは困惑を隠せない。
――ま、まあ、急に知らない人から声をかけられたら誰だって嫌よね。
「何度もごめんなさい。知人に『声をかけると良い』と聞きまして」
「ワシは園芸の草木じゃないぞ! 喋る口が無ければ応対などしなかったわ!」
やっぱりその反応になるわよね、とアニカも思ったが、この態度はいかがなものか。取り付く島なんて全くない。
アニカは必死に我慢していた。
自分に嘘をつかないと心に決めてから、すごく口が滑りやすくなっている。
今まで理不尽なことを言われても笑顔でスルー出来ていたのに、どうやって堪えていたのかわからない。
――冷静になるのよ、アニカ! 穏便に行くの!
こんなことを考えている時点で全く冷静ではないが、アニカは必死に自分を押さえていた。
「ふんッ! こんな魔力のかけらもない小娘に答えてしまったなんて腹立たしい! あの金髪の『ライネル』とかいう坊ちゃんならまだしも!」
怒らないように頑張っていたのに、この一言で決壊した。
「――はああぁぁぁ!!?? こっちが下手に出ているからって好き放題言わないで下さるッ!?」
魔力がないのは事実だけれど、今はその侮辱よりもライネルと比べられたことにカチンと来た。
だってあのライネルである。
魔力量も質も歴代貴族の中でナンバーワンの男だ。彼に匹敵する人間なんて現在どころか過去にもいないし、多分未来にも現れない。そんな人外一歩手前の人間と魔力無しの無能を比べるなんて土俵から間違えている。
それこそカブトムシ同士の相撲に鷹を投入するようなものだ。
アニカは別にライネルが嫌いなわけではないが、ライネルを比べるなと憤った。
「……私を無能だと罵っても別に構いませんが、それ相応の報いを受けていただきますわ!」
「それ相応の報い、じゃと……?」
「ええ! 貴方を押さえつけて、本を開いたままにして……」
何を言われるのか、とグレゴールが息を呑む。
アニカは勢いそのまま叫び散らした。
「本の間に挟まるように、わざとハードパンを食べて差し上げますわ! パンくずのトッピングです、とっても素敵でしょう!?」
一生懸命本が嫌がりそうなことを考えた結果がこれである。
『燃やす』だと『殺す』と言っているようなものだし、それだけは冗談でも言ってはいけないと思った。
アニカの思惑通り、グレゴールはすごく嫌そうな顔をした。『本の上でパンを食べるなんて、こいつありえねえ』という顔をしている。
何も言い返してこないのは、これ以上文句を言ったら倍にして返されると警戒しているのだろう。
ぐぬぬと悔しそうに口を噤むグレゴールにアニカはドヤ顔を決めた。
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