第31話




第31話「忍び寄る影と、距離のその先」



「……やってみれば?」


すみれの挑発的な言葉に、遥の脳が一瞬ショートした。

けれど、このまま黙ってやり過ごすのは男としてどうなんだ――そんな謎の意地が胸を支配する。


「じゃあ……ほんとに、行くぞ?」

「……うん」


エレベーターの中、ほんの数センチずつ距離を詰めていく。

すみれの瞳がわずかに揺れ、睫毛が小さく震える。

あと数ミリで――


ピンポーン


無情にも、目的の階に到着する音が響いた。

二人は同時に視線を逸らし、何事もなかったかのように降りる。


廊下を歩いていると、すみれがふと足を止めた。

「……今、誰かいた?」

「え?」

振り返ると、エレベーターの前で黒いキャップを被った人物がこちらを見ていた。


一瞬で視線を逸らされ、そのまま非常階段へ消えていく。

胸の奥がざわつく。

映画祭の警備は厳重なはずなのに、あの人物はスタッフ証を付けていなかった。


「……部屋に入ったら、鍵しっかり閉めろよ」

「うん……」


部屋の前に着くと、すみれはドアノブに手をかけながら振り返った。

「遥……今日、そばにいてくれてありがとう」

その笑顔は、昼間の緊張を忘れさせるほど温かい。


けれど――俺の脳裏から、あのキャップの人物の後ろ姿は消えなかった。



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