第2話 異世界への転生
***
意識の光が、再び点った時。
俺は完全なる「無」の只中に存在していた。
そこは、およそ人間が持ちうるあらゆる語彙と概念を以てしても、その本質の欠片すら表現することが叶わないであろう、絶対的な虚無の空間だった。
上も下もない。
右も左もない。
空間的な座標軸の一切が意味をなさず、始まりもなければ終わりもない。
無限とも有限ともつかない不可知の領域が、ただ広がっている。
それは例えるならば、宇宙から最後の星が消え失せ、光という概念そのものが死に絶えた後の、深淵の闇が永遠の彼方まで続いているかのようであり。
同時に、ビッグバン以前、宇宙の森羅万象、全ての物質とエネルギーと光と時間が、想像を絶する密度でただ一点に凝縮され、そのあまりの輝きと存在感の強大さに人間の認識が耐えきれず、結果として完全な漆黒としてしか知覚できない世界であるかのようでもあった。
生前はあまりにも当たり前すぎて、その存在を意識することさえなかった「身体」という感覚は、この場所では極めて希薄だった。
まるで静かな水面に一滴だけ落とされた水彩絵の具が、その輪郭をゆっくりと失い、周囲の水と溶け合って曖昧になっていくように。
俺の身体の境界線もまた、この虚無の中に拡散していくようだった。
手足があるのかないのか。
心臓が動いているのかいないのか。
それすらも定かではない。
ただ、唯一つ、揺るぎなく確固として存在する「俺」という意識の核だけが、まるで宇宙空間に放り出された孤独な思考の塊のように、ぷかぷかと漂っていた。
そこには温度もなければ重さもなく、喜びも悲しみもない。
かつて俺を支配し、突き動かしてきたあらゆる欲望や感情の波も、ここでは完全に凪いでいた。
時間さえも、ここでは意味をなさないようだった。
一瞬が永遠であり、永遠が一瞬であるかのような、時が凍りついた不思議な静寂が、全てを支配していた。
ふと、思考の片隅に疑問が浮かぶ。
ここが、かの有名な天国という場所なのだろうか。
古今東西、数多の宗教や神話で語られてきた、死せる魂がその生前の行いに応じて導かれるという、安らぎと救済に満ちた園。
善人は祝福され、永遠の幸福を享受するという、理想郷。
いや、それだけは断じてない。
絶対に、天地がひっくり返ってもあり得ない。
俺は自嘲気味に心の中で首を振った。
生前の自らの行状、アレやコレやの数々の所業を、この静寂の中で極めて冷静に、客観的に鑑みるに。
この俺の魂が天国行きのプラチナチケットを手にできる確率は、道端で無防備にひっくり返って足をばたつかせているゴキブリが、国民の熱狂的な支持を受けた厳正なる選挙を経て、日本の次期総理大臣に選出される確率よりも、さらに天文学的に低いだろう。
万に一つ、億に一つもない。
それは絶対的な確信だった。
俺はどんな人生を送ってきたか。
甘い言葉で女を口説き、その純情を踏みにじり、飽きればゴミのように捨ててきた。
金のためなら、長年の友情さえも天秤にかけ、平気で裏切りの刃を突き立てた。
弱者からは搾取し、強者には媚びへつらい、常に自分の利益だけを追い求めてきた。
その道程で一体、何人の人間を泣かせ、何人の人生を狂わせてきただろうか。
思い出そうとしても、その数が多すぎて正確には数え上げることすらできない。
そんな俺が行くべき場所は、光と音楽と笑顔に満ちた清浄な場所であるはずがないのだ。
行くべき場所は、むしろその対極。
灼熱の業火が罪人の皮膚を焦がし、その魂の芯まで焼き尽くし、決して癒えることのない苦痛を永遠に与え続ける炎の海。
あるいは、血と膿で満たされた悪臭漂う池がどこまでも続き、亡者たちが互いを罵り、引きずり込み合う絶望の沼。
人々が想像しうるあらゆる苦しみを具現化した、いわゆる地獄と呼ばれる断罪の場所のはずなのだ。
だが、不思議なことに、俺の心は鏡のように静まり返っていた。
まるで、厚い氷が張った冬の湖面のようだった。
生前の最期の記憶。
裏切った元カノのアユミに背中を深く刺された時に走った、肉が裂け骨に達する灼けるような激痛も。
自分の体から急速に温かいものが失われていく、あのどうしようもない喪失感も。
意識が闇に飲まれていく瞬間の、抗いがたい絶対的な死の恐怖も。
そして最期に見た、俺の名前を絶叫しながら泣き崩れていたアユミの顔も。
全てが遠い、遠い世界の出来事のように感じられた。
まるで、他人の人生を綴った小説を読んでいるかのような、奇妙なまでの他人事感。
そこには、後悔も、怒りも、悲しみも、未練も、何一つ存在しなかった。
むしろ、ここにあるのは安らぎだった。
何重にも重ねられた、この世で最も分厚く柔らかな羽毛の毛布に全身を優しくくるまれて、母の温かい腕の中で微睡む生まれたての赤子のような、絶対的で根源的な安心感が、俺の意識の全てを満たしていた。
もしここが本当に地獄なのだとすれば、あまりにも静かで、穏やかで、平和すぎやしないだろうか。
それとも、これこそが新たな責め苦の一環で、この束の間の安らぎの後に、想像を絶するほどの苦痛が待ち受けているという、極めて手の込んだ、悪趣味な演出なのだろうか。
罪の重さを自覚させ、一瞬の安寧を与えることで、その後に訪れる絶望をより深いものにするための、地獄の流儀というやつなのかもしれない。
まあ、どちらでもいいか。
天国だろうが地獄だろうが、あるいは全く別の何かであろうが、もはや俺には関係のないことだ。
俺は考えるのをやめた。
この抗いがたいほどに心地よい微睡みに全身を委ね、俺という意識の最後のひとかけらは再び、深く、深く、光の届かない底の見えない眠りの海へと、ゆっくりと沈んでいった。
◇
次に意識が覚醒の縁へと静かに浮上したのは、唐突に、しかし優しく響き始めた音の連なりがきっかけだった。
チチチ、ピチュピチュ、ピリリリ。
やかましい。
何の音だ、これは。
けたたましい電子音で無理やり意識を引き剥がすデジタルなアラームとは明らかに違う。
もっと有機的で、生命の息吹を感じさせる、どこか澄んだ清らかな音色だ。
まるで、最高級のオーディオシステムで再生した自然音のCDのようでもある。
朝の目覚ましにしては、やけにオーガニック志向だな。
そんなことを考えながら、次に俺の感覚を鋭く刺激したのは、匂いだった。
むせ返るほどに濃密な、生命そのものの匂い。
雨上がりのアスファルトが放つ都会的なオゾンの匂いや、排気ガスと香水と食べ物の匂いが混じり合った雑多な街の匂いとは、全く異質だ。
もっと根本的で、力強く、大地と植物が一体となって発するような匂いの奔流。
幾億年、あるいはそれ以上の悠久の時をかけて、無数の生命が生まれ、死に、朽ちていく輪廻の中で堆積して生まれたであろう、湿り気を帯びた豊かな腐葉土の匂い。
幾千幾万、いや、それ以上の数の葉が一斉に風に揺れ、太陽の光を浴びて光合成を行う、青々とした植物の息吹。
そして、視界には入らないどこかで、その存在を懸命に主張するかのように咲き誇る、名前も知らない野生の花々が放つ、むやみやたらに甘く、それでいて少しも嫌味のない高貴な芳香。
それら全てが渾然一体となって複雑に絡み合い、俺の鼻腔を優しく、しかし抗いがたい力で強引にくすぐり、肺の隅々にまで浸透していく。
なんて空気の美味い場所だ。
昨夜、いや、死ぬ前の晩か。
浴びるように安物の酒を飲んだ記憶がある。
二日酔いの気だるく重い朝に、この空気を胸一杯に吸引できたなら、高価な栄養ドリンクや迎え酒などよりも遥かに早く、一瞬で心身ともに回復できるだろうな。
そんな馬鹿げたことを本気で考えてしまうほど、その空気はどこまでも清浄で、生命の活気に満ち溢れていた。
続いて、皮膚を直接撫でる触覚が、これが夢ではないという確かな現実を伝えてくる。
頬に当たる柔らかな感触は、長年愛用し、俺の頭の形に完璧に馴染んでいた低反発枕のそれとは全く違う。
もっと柔らかく、それでいて僅かな弾力があり、生命そのものの温かみを感じさせるものだ。
例えるなら、最高級のペルシャ絨毯。
いや、違う。
もっと自然で、生きている感触。
これは、天然の苔だ。
恐る恐る指先を僅かに動かしてみると、ふかふかとどこまでも柔らかい土の感触と、夜の間に降りた露に湿った瑞々しい草の冷たさが、驚くほど克明に伝わってきた。
いよいよもっておかしい。
状況が全く理解できない。
俺の最後の記憶が正しければ、俺は昨夜、アスファルトと排気ガス、そして行き交う人々の無関心にまみれた都会の片隅にある、うらぶれた公園のベンチで、アユミに背中を刺されて血塗れになって死んだはずだ。
少なくとも、こんな爽やかな森林浴が満喫できるような、牧歌的で平和な状況ではなかったはずだ。
俺は、まるで鉛で作られているかのように重く、固く張り付いた瞼を、ゆっくりと、本当にゆっくりと、一枚一枚慎重に引き剥がすように持ち上げた。
そして、目に飛び込んできたのは、あまりの光景に言葉を失うほどの、圧倒的なまでの緑だった。
どこまでも、どこまでも続く、深遠なる木々の緑。
天を突き、雲を貫くかのような巨木が、まるで神々が住まう神殿の柱のように何本も、何十本も、数えるのも馬鹿らしくなるほど無数にそびえ立ち、その大きく広げられた枝葉が複雑に、そして緻密に絡み合って、巨大な緑の天蓋、ドームを形成している。
その濃密な葉の隙間からは、まるで天上の世界からこの地上を祝福するかのように差し込む神の指先のように、幾筋もの神々しい光の筋が降り注いでいた。
地面に落ちた光は、風に揺れる木々とともに生命を宿した生き物のように絶えず揺らめき、幻想的な光と影のダンスを繰り広げている。
視線をわずかに上げて葉の隙間から空を覗けば、そこには最高級のラピスラズリを惜しげもなく溶かしてぶちまけたような、どこまでも澄み切った、吸い込まれそうなほどの深い青色が広がっていた。
「……なんだ、ここは」
掠れて、ほとんど音にならなかったか細い声が、紛れもなく自分の喉から発せられたことに、俺は心底驚いた。
軋む身体をゆっくりと起こすと、自分が深い、深い、これまで見たこともないような原始の森の真ん中で倒れていたことを、ようやくはっきりと理解する。
見渡す限り、人工物は一切見当たらない。
コンビニも、自動販売機も、灰色の無機質なアスファルトの道路も、空を醜く分断する電柱の一本すらない。
そこにあるのは、人間という種族の存在そのものを矮小なものだと嘲笑うかのような、圧倒的なまでのスケールを誇る大自然だけだった。
一体何が起きた?
殺された後、誰かが俺の死体をここまで担いできたとでもいうのか?
たとえば、高尾山あたりの人気のない場所にでも不法投棄されたか?
いや、それにしても、目の前に広がる木々のスケールが、日本でこれまで見てきたものとは明らかにかけ離れすぎている。
屋久島で見たという樹齢数千年の縄文杉ですら、ここの木々と比べれば可愛らしい盆栽のように思えてしまうだろう。
第一、身体のどこも痛くない。
あれほど深く、背骨にまで達する勢いで刺されたはずの背中にも、痛みはおろか、傷跡一つ残っていないのだ。
まるで、あの事件など最初からなかったかのように。
混乱しきった頭で、必死に状況を整理しようと試みた、まさにその時だった。
ガサガサッ!!
すぐ近くの、人間の背丈ほどもある鬱蒼と茂った藪が、尋常ではない激しい音を立てて大きく揺れた。
まるで、その向こう側で小型の自動車でも暴れているかのような凄まじい物音だ。
猟犬にでも追われた巨大な猪か、あるいは驚いて逃げ出す鹿の群れでも飛び出してくるのか。
咄嗟に身構え、後ずさる俺の前に姿を現したのは、そんな生易しい野生動物などでは断じてなかった。
「……は?」
クマ、だった。
いや、クマというには、あまりにもその存在は規格外すぎた。
動物園の檻の中で見たことのある、のんびりと寝そべっていたツキノワグマや、鮭を追って川を遡上するヒグマとは、生物のカテゴリーからして根本的に違う。
体長は、優に三メートルを超えているだろう。
まるで大型トラックのタイヤのように太く、岩のような筋肉が盛り上がった屈強な四肢が、大地をがっしりと掴んでいる。
全身を覆う体毛は、薄汚れてゴワゴワになった艶のない黒色で、ところどころに泥や、あるいは他の生き物のものらしい乾いた血のようなものが無数にこびりついていた。
そして、大きく裂けた口元から醜く突き出した牙は、まるで研ぎ澄まされることなく使い古された、黄ばんだ無骨な短剣のようだった。
何よりも異様だったのは、その両目だ。
そこには、理性や知性の光は一切宿っておらず、ただ純粋で根源的な憎悪と、底なしの飢餓だけが、赤い地獄の炎となって燃え盛っていた。
その血走った双眸が、獲物をロックオンする精密機械のように、寸分の狂いもなく真っ直ぐに俺を捉えていた。
グルルルルゥ……。
それは、地獄の底から直接響いてくるような、低く、重い唸り声だった。
空気がビリビリと震え、俺の内臓が直接揺さぶられるような不快な振動が全身を駆け巡る。
生物としての格の違いを、魂に直接叩きつけられるような、絶対的な恐怖。
マズい。
これは、本当に、心底、マズい。
理性が状況を完全に理解するよりも遥か早く、俺の生存本能が、ありったけの力で脳内に警鐘を乱れ打つ。
あれは、動物園の檻の中でだらだらと寝そべっているような、平和な世界の生き物ではない。
あれは、頂点捕食者だ。
そして、今この瞬間、俺という存在を「食料」というカテゴリーでしか認識していない。
次の瞬間、その巨大なクマもどきは、天を裂くかのような凄まじい咆哮と共に、俺に向かって猛然と突進してきた。
ズシン、ズシンと地面が揺れ、その衝撃で周囲の土や枯れ葉が舞い上がる。
その巨体からは到底想像もつかないほどの、信じがたい俊敏さだった。
数十メートルの距離が、瞬く間にゼロになる。
「うわああああああああっ!」
死の恐怖。
その感覚は、嫌というほど、この身に深く、鮮明に刻み込まれていた。
背中に走る灼けるような熱さ、鼻をつく鉄錆のような血の匂い、急速に失われていく体温、そしてゆっくりと闇に閉ざされていく意識。
前世の、あの公園での惨めな最期の記憶が、鮮明すぎるフラッシュバックとなって脳裏を駆け巡る。
アユミの甲高い悲鳴が、遠くでぼんやりと聞こえるサイレンの音が、背中に感じる冷たいアスファルトの感触が、一瞬にして鮮やかに蘇る。
また死ぬのか?
せっかく生き返った(?)というのに、今度はこんな得体の知れない化け物に腹を食い破られ、内臓を引きずり出されて、無様に死ぬのか?
嫌だ!
冗談じゃない!
死にたくない!
生きたい!
もっと生きて、美味いものを腹一杯食って、息を呑むような綺麗な景色を見て、フワフワのベッドで眠って、可愛い女の子とイチャイチャしたい!
その、あまりにも俗物的で、しかし何よりも強烈な生存本能が、俺の意識と思考を完全に飛び越えて、無我夢中で身体を動かした。
迫りくる巨大な死の塊に向かって、俺はただ、右手を目一杯突き出していた。
それは、祈りでもなければ、抵抗ですらなかった。
ただ、死にたくないという魂の叫びが、脊髄反射としてその形を取っただけだった。
止まれ!
心の中で、声にならない声でそう絶叫した。
その瞬間、腹の底、丹田と呼ばれるあたりから、何かマグマのように灼熱のエネルギーの塊が、ゴボリと音を立ててせり上がってくる感覚があった。
それは瞬く間に体中の血管を駆け巡り、まるで沸騰した血液が全身を駆け抜けるような凄まじい灼熱の感覚を残して、突き出した右手のひらに、全ての力が稲妻のように集約していく。
――ゴウッ!
俺の手のひらから、視界が真っ白に染まるほどの眩い閃光と共に、巨大な炎の塊が放たれた。
それは、キャンプファイヤーで穏やかに燃えるような、牧歌的で可愛らしいものではない。
直径が二メートルはあろうかという、凝縮された太陽そのものと見紛うほどの、凄ましい密度と熱量を秘めた灼熱の火球だ。
それは空気を切り裂く轟音と、周囲の水分を一瞬で蒸発させる音を立てながら、一直線にクマもどきに直撃し、その巨体を一瞬にして飲み込んだ。
ドッゴオオオオオオオオオオン!!!
鼓膜が破れるかと思うほどの、耳を聾する爆発音。
凄まじい熱風と衝撃波が、俺の身体をまるで紙切れのように後ろへと思い切り吹き飛ばした。
何が起きたのか、全く理解が追いつかなかった。
俺は地面に無様に尻餅をついたまま、ただ呆然と目の前の光景を見つめていた。
そこには、先ほどまで俺を食い殺そうと牙を剥いて迫っていた巨大なクマもどきの姿は、影も形も、肉片一つ、血の一滴すら残さず完全に消え失せていた。
いや、それどころではない。
あの化け物が存在していた場所を中心に、半径十メートルほどの範囲にあった、天を突くような巨木が、まるで最初からそこには何もなかったかのように、根こそぎ消し飛んでいたのだ。
地面は巨大なスプーンでえぐり取られたように大きくクレーター状にへこみ、超高温で溶かされた土は、不気味な黒い輝きを放つガラスのように変質している。
そこから立ち上る黒煙と、チリチリと燃え広がる下草の焦げた匂いだけが、これが幻覚や夢ではなく、紛れもない現実であることを、俺の混乱した脳に執拗に突きつけていた。
「…………」
俺は、まるで自分の身体ではないかのように、ゆっくりと、震える自分の右手を見た。
ごく普通の、どこにでもある成人男性の手だ。
昔から、少し指が長いとは言われてきたが、それだけの変哲もない手。
爪はなぜか綺麗に整えられている。
昨日まで、この手は、スマートフォンの画面を滑らかにスワイプするか、あるいは、女性の柔らかな髪を優しく撫でるためだけに使われてきたはずだった。
暴力沙汰は数あれど、せいぜいが人を殴るくらいのものだ。
だが、今、この手は、巨大な生物と、それが生きていた森の一部を、文字通り「消滅」させたのだ。
もう一度、目の前に広がる巨大なクレーターに視線を戻す。
そして、もう一度、信じられないという思いで、自分の手を見る。
クレーター。
手。
クレーター。
手。
……まさか。
いやいやいや、そんな馬鹿な。ありえない。
何かの見間違いだ。
そうだ、きっと、あのクマもどきは、実は体内に大量の可燃性ガスを溜め込んでいるという非常に珍しい特異体質で、俺が恐怖のあまり突き出した手が、偶然にも静電気か何かでそれに引火して、結果的に派手に自爆したに違いない。
そうだ、きっとそうだ。
そうでなければ、こんな超常現象に説明がつかないじゃないか。
俺が魔法を使った?
まるで最近流行りのライトノベルの主人公みたいに?
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
混乱しきった頭をなんとか無理やり働かせ、俺は一つずつ、今この場にある否定しようのない事実だけを確認していくことにした。
事実その一。
俺は、元カノのアユミに背中を刺されて、確実に一度死んだ。
あの痛みと失血の感覚、そして薄れゆく意識は、間違いなく本物だ。夢や幻覚ではない。
事実その二。
俺は今、日本のどこでもない、見たこともない植物が生い茂る巨大な森の中で、刺された傷一つなくピンピンして生きている。
事実その三。
俺はたった今、巨大で凶暴極まりないクマのような化け物を、手のひらから放った火の玉で、周囲の森ごと跡形もなく吹き飛ばした。
……。
…………。
……………………。
一つずつ、否定しようのない事実を並べてみれば、そこから導き出される答えは、どんなに荒唐無稽で非現実的であっても、どう考えても、一つしかなかった。
「俺は……」
ごくり、と乾ききった喉で生唾を飲み込む音が、静寂の中でやけに大きく聞こえた。
「知らない世界に、転生した…ってことか?」
絶対的な静寂を取り戻した森の中に、俺の間の抜けた、しかしおそらくは真理を突いたであろう声だけが、やけに大きく、そして虚しく響き渡った。
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