第4話 弱さからの脱却
その夜、闘技場の控室には、どこか不思議な静けさが漂っていた。リック、ラグナ、そしてメアリーの三人は、昼間の激しい出来事を反芻するように無言で座っていた。石造りの部屋の壁に掛けられた灯火が、揺らめくオレンジ色の光を投げかけ、三人の影を長く歪ませていた。
控室の外では、まだ興奮冷めやらぬ観客たちの歓声が遠くから微かに聞こえてくる。それが現実味のない異世界に、確かな“今”を与えていた。
そんな中、最初に口を開いたのはラグナだった。
「アタシはさ、リックはもっと強くなるべきだと思うんだ。」
焚き火のような瞳が、じっとリックを見つめる。その瞳には、戦士としての経験と直感、そして、どこか姉のような優しさが混じっていた。
「だからよ、闘技場に住み込みで働いて過ごすってのはどうだ? ここなら戦い方も学べるし、アタシが鍛えてやる。いざという時の備えにもなるぜ。」
その言葉に、リックは小さく目を見開いた。ラグナの提案があまりにも直球で、少しだけ面食らったのだ。それと同時に、彼女の言葉の裏にある期待や信頼も感じ取った。リックのような、ついさっきまで「へなちょこ」と呼ばれていた男に、本気で期待を寄せる人間が、ここにいる――それだけで心が熱くなった。
しかし、メアリーは穏やかに首を振った。
「ラグナ、彼にそれは無理じゃないかしら?」
淡い金髪が揺れ、灯火の光に照らされて柔らかく輝いた。メアリーの声は静かだが、芯がある。
「リックは戦いとは無縁な世界で生きてきたと思うわ。いきなり闘技場に身を置くのは、あまりにも過酷すぎる。まずは宿屋に滞在して、身体も心も落ち着けるべきよ。あそこなら安全だし、少しずつここの生活にも慣れられるはず」
どちらの意見も正しかった。ラグナの言葉には現実的な備えと闘士としての経験があり、メアリーの意見にはリックの不安や疲弊を思いやる優しさがあった。
リックは、二人の視線の間に挟まれながら、静かに目を伏せた。そして、自分の中で眠っていた記憶が、ひとつ、またひとつと浮かび上がってきた。
学校で馬鹿にされた日々。運動が苦手で、ドッジボールのたびに真っ先に狙われたこと。声を上げれば笑われ、黙っていれば無視された。誰にも期待されず、自分でも自分を諦めていた――そんな過去。
だけど、今。自分を見て、認めようとしてくれる人たちがいる。それだけで、胸の奥に灯る何かがあった。
「……僕は強くなりたい。」
ぽつりとつぶやいた声は、やがて確信に変わっていく。
「ラグナの言う通り、闘技場で過ごしてみたい。たしかに僕は戦いの経験なんてないし、怖いけど……でも、元の世界でずっと弱い自分が嫌だった。何もできずに、ただ逃げることしかできなかった。だから今度こそ、変わりたいんだ。」
言葉を重ねるたびに、リックの瞳に力が宿っていった。誰かに言わされた決意ではない、自分で選んだ自分の道だった。
ラグナは満足そうに大きく頷き、力強く背中を叩いた。
「おう、その意気だ!ようやく男らしくなってきたじゃねえか。お前ならきっと強くなれる。アタシが保証してやるよ!」
「い、痛っ……!」
リックは笑いながら背中を押さえるが、その顔はどこか誇らしげだった。
一方で、メアリーは少し心配そうな表情を崩さずにいたが、やがてその視線に優しい微笑みを添えた。
「分かったわ、リック。でも、絶対に無理はしないでね。倒れたら意味がないんだから。私たちもできる限り支えるから……安心して進んでいいのよ。」
リックは深く頷いた。彼の中に芽生えた決意は、もう揺らぐことはなかった。
こうしてリックは、闘技場での生活を始める決意を固めた。明日から待ち受けるであろう厳しい訓練、筋肉痛、失敗――そんなことはまだ知らない。ただ一つ確かなのは、彼が初めて自分の意志で選び取った道を歩き出したということ。
石造りの控室の中で、灯火の明かりが揺れる。その揺らぎは、まるで新しい冒険の始まりを祝福するように優しく、あたたかかった。
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