第2話 私だけの景色
昔から私の目には、ちょっと余計なものが見えた。いつからかは覚えていない。たぶん生まれつきなんだろう。
例えば五歳のころ。家の女中と一緒に道を歩いていて、とある店の前に猫がたくさん集まっているのを見つけた。店のお婆さんが餌をやっていたのだ。
「あら、お嬢様。猫ちゃんがたくさんいますね」
「ええ! とっても可愛い!」
私は喜んで猫を数え始めた。
「見て、十一匹もいるわ」
女中は少し笑って言った。
「よく数えてみてくださいな。ここにいるのは十匹ですよ」
「……そう?」
「珍しいですね。お嬢様は読み書きも計算もお得意なのに」
子供の数え間違いだと思ったのだろう、そのまま女中は店の人と話し始めてしまった。私はその間に何度も猫の数を確かめたけれど、どうやっても十一匹にしかならなかった。
それから六歳の頃。お父様と妹と一緒に出掛けた折、歴史ある庭園に立ち寄った。広大な園内には日本庭園、池や橋、樹木に温室、高い塔など様々なものがあって、私は妹と一緒にあちこち見て回った。
「立派ね。
妹が胡乱気な顔をした。
「何言ってるの、お姉さま。
「え?」
もう一度数え直したけれど、やっぱり塔は六階建てだった。
「お姉さまったら、どうしても数字が苦手なんだから」
妹は面白そうに笑って、さっそくお父様へ報告に行った。自分は年上の姉よりも優れていると自慢したかったのだろう。
七歳の頃。両親に連れられて、大きな迎賓館で行われるパーティーに出席した。洋館みたいな建物の内部は歴史ある調度品や舶来品が飾られて、ちょっとした博物館みたいな機能も有している、風格に満ちた素敵な場所だった。
その廊下を歩いていたとき、どこからかピアノの音が聞こえてきた。まだパーティーの開始時刻には早かったはずだが、人も集まってくる頃だし、もてなしのために音楽をかけているのだろうと思った。
「素敵な曲ね。何ていう題名かしら」
両親と妹は三人で顔を見合わせ、揃って眉をひそめた。
「誰か、音楽なんて聞こえる?」
そのまま入ったホールには、準備中の楽団はいたけれど、ピアノも蓄音機も見当たらなかった。
八歳の頃。うちの屋敷の門に、墨で落書きされていたことがあった。何かの絵だったと思う。とりあえず私は掃除を担当する使用人に知らせ、彼は消しておくからと言ってくれた。でも次の日も消えていなかったから、忘れてられているのかと思った私は、再び落書きのことを訴えた。
使用人たちの立ち話を聞いてしまったのは夜のこと。
「上のお嬢様が有りもしない落書きを訴えている」
「私たちに無駄働きをさせようとしている」
「構ってもらえない寂しさの果てか、我がままな令嬢の憂さ晴らしか」
「旦那様にお伝えした方が良いだろうか」
私は思わず彼らの前に出て、叫ぶように言った。
「勘違いだったみたいで、ごめんなさいね! もう気にしなくていいわ!」
そのまま裏門から外に走り出て、表の大門を見に行った。やっぱり醜い落書きはそこにあった。もう何の絵かも覚えていないけれど、無機質な絵でさえも自分を嘲笑っているように感じられて、私は泣きながらその絵を消した。綺麗な振袖を襷がけにし、使用人が使う桶に冷たい水を汲んで、ぼろぼろの手拭いを濡らしてゴシゴシと木の扉をこすり続けた夜だった。
そんなことが何度あっただろう。家に来たお客様の着物の柄が私だけ違って見えたり、他の人には聞こえない声や音が聞こえたり。初めは「子供の言うことだから」と流していた周囲も、次第に変な目で見るようになった。
もちろん家族も心配した。
父は私を良家に嫁がせることができるのかと。
母は血筋が悪かったと責められるのではないかと。
妹は自分まで他人から変な目で見られやしないかと。
それぞれの不安を抱えて対策を講じようとする彼らを見て、嫌でも自然と理解していた。私の視界は他の人と違うのだと。だから発言には細心の注意を払い、できるだけ口は開かず、会話は同意や相槌でやり過ごすことが多くなった。芸事や書物に夢中な振りをして部屋にこもる時間を増やし、実際に楽器や裁縫の練習を頑張った。それしかすることが無かったし、将来のことを考えれば、少しでも多く技術を身につけておきたかったからだ。
やがて私は世間から忘れられていった。両親が外に出したがらないのもあり、親戚や一部の覚えている人だけが、勝手な憶測をささやいているらしいのだ。「あの家には大層な高根の花がいる」とか、「病弱な娘が囲われている」とか、「はじめから嫉妬深い嫁ぎ先が決まっている」とか。気づけば妙な噂だけが独り歩きしていたのである。
そんな忘れられた令嬢でも、そろそろ進路は決めねばならない。上がつかえていては妹が婿を取りづらいからだ。私も腹をくくらなければいけない、のだが。
「はぁ」
先日の鈴の一件が頭をよぎる。あれは結局なんだったのだろう。持ち主の男性客は何者だったのだろう。そもそも私の目に映る余計なものは、一体なんなのだろう。
「ダメよ、私。考えちゃダメ。全ては気のせいなんだもの」
目を両手で覆って自分に言い聞かせる。幼いころから数えきれないほど繰り返してきたおまじないだ。
「余計なものは見えてない。全部、私の見間違い。大丈夫、大丈夫、だいじょう、ぶ……」
――私は、本当に大丈夫なの?
必至に抑え込んできた心の声が響く。どくん、と心臓が跳ねた丁度そのとき、部屋の外から女中の声がかかった。
「お嬢様。旦那様と奥様がお呼びです」
「……伺うわ」
よし、とにかく支度をしないと。もう誰にも隙を見せないと決めたのだから。それがたとえ、家族と呼ばれる人たちの前だとしても。
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