第16話(香澄目線)


 真尋が帰ってきたのは、午前一時を過ぎたころだった。


「ただいま」


 玄関のドアが開き、少し遅れて靴音が二度響いた。


「おかえり、真尋」


 私はソファから立ち上がり、笑顔で迎える。

 彼の顔は疲れていて、少しだけ視線をそらしていた。


 それでも、私はなにも聞かない。

 信じているから。

 信じている、けれど――。


「洗濯物、出してくれる?」


「あ、うん」


 彼が差し出したシャツを受け取った瞬間、ふっと鼻をかすめた匂いに、心臓がわずかに跳ねた。


 ――煙草。


 真尋は吸わない。

 今まで、一度も。

 しかもこれは、ほんの少し前についた匂い。乾いた煙じゃない、生々しい残り香。


 鼓動が早まる。

 けれど、私は笑顔を崩さなかった。


「お風呂、わかしてあるよ。入ってきて」


「ありがと」


 ドアが閉まり、浴室の水音が始まるのを確認してから、私はシャツをもう一度鼻に近づけた。


 やっぱり、間違いない。

 誰かと会ってる――。



 次の日も、次の日も。

 真尋は夜遅くに帰ってきた。


 言い訳はしない。ただ「ちょっと散歩してた」とか、「考え事してた」と曖昧に笑う。


 そのたびに、私は優しく微笑んで、シャツを受け取る。

 でも、毎晩のように、煙草の匂いがついていた。



 土曜日の夜。

 私は一人、マンションの前に立っていた。


 真尋には「友達と会ってくるね」とだけ伝えた。

 そして彼が出ていくのを、遠くから見送った。


 黒いパーカーにジーンズ、下を向いて歩いていく姿。

 その背中が、なぜか遠くに感じた。


 私は少し距離を取りながら、尾行を始めた。


 ヒールの音を忍ばせるように、静かに、静かに。

 追えば追うほど、胸の中に湧き上がるのは不安ではなく、確信だった。



 公園に差し掛かったところで、彼の足が止まる。

 そして、ベンチに座る誰かの隣に腰を下ろした。


 髪を結い上げた女性。

 夜の冷え込みの中、タンクトップ姿で煙草を吸っている。

 派手ではないけれど、整った横顔が街灯に照らされている。


 真尋は、その女と話している。

 ――笑っていた。


 私にはもう、ずっと見せてくれなくなった顔だった。



 喉の奥が焼けるように痛んだ。

 それでも声は出なかった。

 足が、動かなかった。


 指先が震えるのを止めながら、私はただ、その場に立ち尽くした。


 “あの人は、誰?”

 問いかけようとして、できなかった。


 代わりに、心の奥で小さな囁きがした。


 ――また、取られるの?

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