第15話
シャワーの音が止まった瞬間、俺の心拍も止まりかけた。
寝たふりをしていた背中に、香澄の濡れた髪がふわりと触れる。
「ねえ、真尋……起きてるでしょ?」
わかっていた。逃げられないことも。
だけど、せめて今日は――。
「ん……」
曖昧にうめく俺の耳元に、冷たい唇が触れた。
「寝たふりなんて、ダメだよ」
囁く声は甘い。でも、有無を言わせない力がこもっていた。
彼女の指が、俺の手を取って自分の胸元へと導く。
「今日も、してくれるよね……? ずっと我慢してたんだよ、私」
香澄の身体は、少し震えていた。
でもそれは羞恥じゃない。興奮に近い熱だった。
俺は、息を飲んだ。
「……香澄、今日はちょっと」
そう言いかけた瞬間、彼女の脚が絡んできた。
上から、身体ごと覆いかぶさるようにして、笑う。
「ねえ、私が“ダメ”って言ったら……ダメなの。わかる?」
腕を抑えられて、視線を奪われる。
潤んだような瞳なのに、底の見えない闇があった。
これが彼女の“優しさ”だ。
拒絶すれば、壊れてしまうような演技で、逃げ道を塞いでくる。
「私だけを見てくれるなら、それでいいの。
ねえ、真尋……もう、ほかの人に優しくしないでね」
唇が塞がれる。
どんな言葉も、息も、彼女の舌に溶かされていく。
それでも、彼女の指先は丁寧だった。
痛みも乱暴もない。まるで俺のすべてを知っているかのような手つきで、深く、深く、俺を縛っていく。
――終わったあと、香澄はいつものように満ち足りた笑顔で俺を抱きしめる。
「えへへ……いっぱい、してくれてありがと。真尋の全部、大好きだよ」
腕の中で、息が詰まりそうだった。
⸻
逃げるように家を出たのは、香澄が風呂に入り直していたほんの十数分の間だった。
財布とスマホだけをポケットに突っ込んで、俺は夜の街へと歩き出す。
何も言わず、何も聞かれず、ただ“いない自分”になりたかった。
⸻
そして、たどり着いた。
あのベンチ。
そこに、詩織さんはいた。
相変わらず、タンクトップにジーンズ。
煙草をくゆらせながら、空を見上げている。
「……また来たんだ」
顔は見ないまま、彼女はそう言った。
声はぶっきらぼうで、でも、それが今の俺にはちょうどよかった。
何も言わずに、隣に腰を下ろす。
煙草の匂いと、静けさだけが心地よい。
「……今日は疲れてるね」
言われた瞬間、喉がつまった。
自分でも、何に疲れているのか言葉にできなかったのに。
詩織は、缶コーヒーを一本差し出してくる。
「どーぞ」
その言い方が、優しくもなく、冷たくもなくて、泣きたくなるほど救われた。
「……俺、なんでこんなんなのにあの家に帰ってるんだろうって思うんです」
ぽつりと、言葉が漏れた。
「心が離れていってる感じがするんです。愛されてるって、こういうことじゃなかった気がして……」
詩織は何も言わなかった。
ただ煙草を吸いながら、夜空を見ていた。
彼女は何も否定しないし、肯定もしない。
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