第4話
アパートの玄関を開けた瞬間、ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。
香澄の作る、ごちそうの匂いだ。
(……あれ?)
ドアを閉めたあとも、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
部屋の奥から、鍋の煮える音と、包丁のリズムが聞こえる。
まるで、どこかのCMみたいな、幸せな音だった。
「真尋ー? おかえりー!」
キッチンの奥から、香澄が顔を出す。
肩までの髪をゆるく結んで、薄いエプロン姿。化粧もナチュラルで、まるで“優しい天使”の顔だった。
「今日ね、頑張って作ったんだよ?」
にっこりと笑う彼女の横で、煮物の湯気がふわりと舞う。
それだけで、さっきまでの空腹も、焦燥も、ふっと消えていった気がした。
「……うん、ありがとう」
俺の声は掠れていたけれど、香澄は何も言わず、皿を並べ始める。
唐揚げ、煮物、味噌汁、炊き立てのご飯。
――ご馳走、だった。
テーブルについた俺は、空腹のまま一心不乱に箸を進める。
「おいしい?」
香澄が、少し照れたように尋ねてくる。
「うん……すごく」
正直、涙が出そうだった。
この一口一口が、どれほど沁みたか。
(……やっぱり、香澄は優しい)
昨日の“なんで”も、今日の“減額”も、きっと俺のせいなんだ。香澄は悪くない。彼女は、こうして俺を想ってくれてる。
「真尋のためだけに作ったんだからね」
香澄は笑う。
◆ ◆ ◆
夕食が終わると、香澄は食器を片付けるためキッチンへと向かった。
「ねえ、真尋。テレビでもつけてていいよ。あとでデザートもあるから」
「うん」
言われるがままソファに座るが、なんとなくポケットが重く感じた。
(……あ、チョコ)
塾で御影しずくにもらったチョコレート。
断ったつもりだったけど、いつの間にかカバンに入っていた。きっと、あの時こっそり忍ばせたのだろう。
お腹が満たされた今、甘いものが少し恋しくなる。
(……いや、でも香澄の目の前じゃまずいよな)
そっとカバンを開けて、中を確認した――そのときだった。
背中に、気配が走った。
振り返ると、香澄が立っていた。
「……ねえ、真尋。なに、それ?」
声は甘かった。でも、目が笑っていなかった。
手には、俺のカバン。
さっきまでソファの脇に置いていたはずのそれを、香澄はすでに開けていた。
彼女の指先には、御影からもらったチョコレートの包みが握られていた。
そして、その裏側――
『お腹空いた時にどうぞ』
と、メモ用紙に書かれた文字が、はっきりと貼られていた。
「……なに、これ?」
香澄が、微笑んだまま“いつもの声”で訊ねてくる。
俺の心臓が跳ねる。
「ち、ちが……これは、その、塾で……」
「うん。塾で?」
「生徒が、くれて……俺、断ったんだけど、気づいたら、カバンに――」
「ふぅん」
チョコをじっと見つめる香澄。
「……じゃあ、なんで処分しなかったの?」
静かに問いかける声が、耳にひりつく。
「いや、その……タイミングがなくて」
「じゃあ、なんでその“処分できなかったもの”を、さっきカバンから取り出そうとしたの?」
――“なんで”が始まった。
心臓の鼓動が、喉元まで上がってくる。
「なんで?」「なんで?」「なんで?」
香澄は笑顔のまま、言葉を畳みかける。
部屋が、急に冷たくなったようだった。
「真尋はさ。私のこと、好きなんだよね?」
「……好きだよ」
「ふぅん……でも、私の知らないところで、別の女から甘いものもらって、しかもそのまま保管してる人が、好きって言ってくれるんだね?」
「……ごめん、ほんとに違うんだ」
「違う? じゃあなんで?」
まただ。
もう、何が正しいか、わからなくなる。
何を言っても、正解じゃない気がして、喉が詰まる。
「……ごめん、俺が悪かった」
ようやく、それだけが口をついて出た。
香澄は微笑んだ。
いつもの、慈愛に満ちた顔で。
「うん、そうだよ。真尋が悪いんだよ?」
彼女はチョコの包みを指で弾いた。
それが、軽い音を立てて、床に落ちた。
「ね? 私、怒ってるわけじゃないよ? ただ、真尋が間違えないように言ってあげてるだけ」
そう言って、俺の手をぎゅっと握ってくる。
その指は、温かかった。
――けれど、俺の背筋は、少しずつ冷えていった。
◆ ◆ ◆
この夜、デザートは出なかった。
代わりに、部屋に戻った香澄が言った。
「今日は、お小遣いなしね。……次、こういうのあったら、バイトも見直そっか」
その言葉に、俺はなにも言えなかった。
ただ――チョコの包みが、ゴミ箱に沈んでいく音が、やけに耳に残っていた。
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