第5話

 寝室の灯りは落とされ、カーテンの隙間から、街灯のオレンジ色が静かに差し込んでいる。


 俺は、香澄のベッドの端に腰を下ろしながら、スマホの画面を見つめていた。

 何度も下書きを開いては閉じ、ようやく打ち込んだメッセージを送信する。


 『ごめん。俺が悪かった。香澄を不安にさせてしまったこと、ちゃんと反省してる』


 けれど、それに返信は来ない。

 ……当たり前だ。香澄はすぐ隣のキッチンにいる。


 俺の背後では、食器の音がしていた。洗っているわけではない。

 片付けも、もう終わっているはずだ。


 じゃあ――なにをしてるんだろう。


 どこか不自然に長い沈黙。

 リビングとキッチンに漂う、気まずい空気。


 さっきから、俺はずっと「ごめん」を繰り返している。


 言葉を選んで、謝って、それでも彼女は「うん」さえ言ってくれなかった。


(……どうすればいいんだよ)


 喉の奥に、言葉にならない感情がつかえている。


 “なんで?”という声が耳に残っていて、何かを言おうとするたび、それが先回りしてくる。


 そうして黙っていると――それは、それで「なんで黙ってるの?」と言われる。


 正解なんて、もうわからなかった。


 


◆ ◆ ◆


 


 22時を過ぎた頃だった。


 シャワーを終えた香澄が、髪をタオルで拭きながら、俺の隣にやってきた。


 白いパジャマ。胸元が少し緩く開いていて、いつもと同じ香りがした。


 無言のまま、ベッドに潜り込んで、背中を向けて寝転がる。


 俺は小さく息をのむ。


「……香澄」


 返事はない。


 思わず、手を伸ばしかけたけれど、怖くて止めた。


 (やっぱり、怒ってるよな……)


 もう何度謝ったかわからない。でも香澄は、一度も「許す」と言ってくれなかった。


 それでも――


「……真尋」


 突然、布団の中から、小さな声が聞こえた。


「……一緒に寝よ?」


 俺が言葉を失っていると、香澄はゆっくりとこちらを振り向いた。


 その顔は、怒っているようにも、泣きそうなようにも見えた。


 「……もう、いいから」とでも言うように、彼女が布団の中から腕を伸ばしてくる。


 そのまま、ぎゅうっと――俺の胸に抱きついてきた。


 まるで、抱き枕みたいに。


 体温が伝わってくる。

 髪の毛が頬に触れる。

 香水の匂いが、近すぎて、息が止まりそうだった。


「……」


 香澄は、それ以上何も言わなかった。


 ただ、きゅうっと俺に腕を回して、離れようとしなかった。


 その細い肩に、俺は手を回すこともできず、ただ息を詰めたまま抱きしめられていた。


 (……どうして)


 香澄の考えていることが、わからなかった。


 怒っているのか、甘えているのか。


 俺を責めたいのか、安心したいのか。


 さっきまで責められていた時間と、このぬくもりのギャップに、思考が追いつかない。


 ――だけど。


 それでも俺は、彼女の腕の中でじっとしていた。


 たぶん、そうすること以外、もう何も選べなかったから。


 


◆ ◆ ◆


 


 部屋は、静かだった。


 どこかで時計の針が動く音がしていたけど、それもすぐに意識の外へと消えていく。


 俺は、香澄に抱きしめられたまま、瞼を閉じた。


 そしてまた、眠れない夜が始まった。

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