⑥
明後日から夏服が始まる五月三十日、金曜日のことだった。
午後十時過ぎ、バイトから帰ってきてダイニングでスポーツドリンクを飲んでいると、良樹さんが二階の書斎から下りてきて、
「裕也君と愛理に話があるんだ」
愛理は母さんと共にL字型のソファーに座っている。ドラマを観ていたところだった。
良樹さんはその〈L〉の横線の所に腰を下ろした。
ので、俺はグラスを持って〈L〉の天辺の辺り──愛理の隣に座った。
良樹さんは俺と愛理を交互に見ながら言った。
「さっき弟から電話あって、この土日の間、甥っ子を預かってくれないか、と頼まれたんだ」
今年幼稚園の年長に上がったばかりの五歳だそうだ。用事のある弟夫婦は、本来は別の人に息子を預ける予定だったのだが、その人にトラブルがあり、急遽、良樹さんに白羽の矢が立った、ということらしい。
ただ、良樹さんも母さんも明日は日勤で夜まで不在だ。必然的に、勉強くらいしか予定のない俺か、バイトも部活もしておらず融通の利く愛理が見ることになる。
「申し訳ないんだが、お願いできるかい?」
と良樹さんは言うが、断られるとは思っていなそうな口ぶりだった──たしかに、断固として拒まなければならない理由はないが。
何とはなしに愛理を窺うと、目が合って、しかし流れるように逸らし合った。
俺は、良樹さんのその儀礼的な問いにうなずいた。
愛理もほとんど同時に、「わかりました」と静かに了承を口にしていた。
誕生日から五日経っているが、俺と愛理の間には相も変わらず重苦しい沈黙が横たわっている。
愛理の右隣に座る母さんは、やれやれとばかりに息をつき、
「子供の前では夫婦喧嘩も一時休戦にしなきゃ駄目よ」
と親、もとい祖母らしいことを言った。
「夫婦じゃないが」「夫婦ではありませんよ」
俺と愛理の返事がきれいに重なり、母さんはおかしそうに微笑した。「大丈夫そうね」などと言う。
しかし、良樹さんは少しだけ心配げにしていた。
何かあるのだろうか。
午前九時過ぎには弟夫婦は到着した。家の中には上がらず、車のアイドリング音が聞こえてくる玄関口での対面となった。
「ほら、
良樹さんの弟さんが、母親に手を引かれて現れた少年を促した。
少年は、内心を窺わせない無機質な瞳で俺と愛理を等分に見ながら、
「咲翔、五歳」
とだけ言葉にした。
「ごめんなさいね、この子、人見知りで」母親がすかさずフォローを入れた。
愛理は愛想笑いを繕った。「ふふ、気になさらなくて大丈夫ですよ。このくらいの子が、よく知らない人のうちに連れてこられたら緊張もしますよ。わたしにも覚えがあります」
母親も笑みを返した。「ありがとうございます。よろしくお願いしますね」
そうして弟夫婦は、不安なのか案外そうでもないのかぼんやりと虚空を眺める咲翔を置いて出発した。
愛理は玄関ホールの縁でしゃがんで、
「朝から車に乗って疲れたよね。おうちでゆっくりしよ? ジュースもあるよ──」
さぁ上がって、と言って立ち上がった。
と、咲翔は、無表情ながら言われたとおりに靴を脱いで敷居を跨いだ。
俺は彼女たちの後ろをおもむろに歩きながら、内心で感心していた。
愛理にこんな一面があるとは、言っては悪いが、意外だった。内向的でおとなしい彼女のことだから子供は苦手だろうな、と勝手に思っていたが、これが母性本能というやつなのか、全然そんなことはないようだ。
どう接すればいいかわからず密かに冷や汗を流している俺とは大違いである。
咲翔は手の掛からない子だった。
親がいなくて寂しがることも、話し相手になってほしい、遊んでほしいとせがむこともなく、リビングのソファーに座って有線のアニメ専門チャンネルを静かに見ている。
「……」「……」
一方、俺と愛理はダイニングテーブルの所から咲翔の横顔を見守りつつ心配と不安を共有していた。
咲翔はおとなしいが、その姿は元気がないようにも見えた。
無理をして気丈に振る舞っているだけで、本当は知らない所に置いてけぼりにされて応えているのではないか。ある時に突然寂しさのダムが決壊して泣き出したりはしないだろうか──そんなふうに考えると、大人としてはハラハラしてしまう。笑いどころでも眉一つ動かさないことも、この推測を裏付けているように思えた。
「な、なぁ」俺は咲翔のほうを見やりながら愛理に声を向けた。かなり広いLDKだが、普通に話していたら咲翔に聞こえるかもしれないので少し声を低くしている。「一緒に遊んでやったほうがいいんじゃないか」
「そうかもしれませんが……でも、ゆっくりアニメを観たいかもしれませんし」愛理は消極的なことを言い、しかし切り返しもする。「そんなに心配なら、あなたが構ってあげればいいのではないですか」
「いや、俺はその、一人っ子だから子供はちょっと専門外というか」
「わたしも一人っ子なんですけど」
「でも、愛理は子供得意そうじゃん」
「わたしだって得意というわけではないですよ」
そうなのか? と再び意外な気持ちで愛理を見ると、
「子供が生まれた時のために勉強していたんです」
哀愁を漂わせるでも当てこするでもなく、淡々と言った。
と思ったが、
「最後の二、三年は全然してくれませんでしたから、できるわけなんてなかったんですけどね」
チクリというか、ブスリと刺してくる。
俺はいたたまれなくなって、咲翔のほうに逃げることにした。
「ちょ、ちょっと話しかけてみる」
「では、わたしはお昼を作りますね」
言ってから愛理は、ふわっと口元を緩めた。
どうした? と目で問うと、愛理は、何でもないというように小さくかぶりを振ってカウンターキッチンへと足先を向けた。
「よ、よう、元気か?」
外でやったら事案になりそうな挙動不審さで俺は尋ねた。
咲翔はこくりとうなずいたが、言葉はない。
隣いいか? と問うと再びうなずいたので、腰を下ろす。
テレビでは国民的アニメの再放送が流れている。
主人公の少年が押し入れの中から部屋の様子を窺っている。
見覚えのあるエピソードだ。たしかタイムリープ系の話だったか。ミステリー要素も入っていた気がする。
何を話せばいいんだろうか、と思案しながら画面を眺めていると、オチまで来てしまった。俺は楽しめたが、幼稚園児が理解するには少し複雑なのではないか。
「この話、難しくなかったか?」
邪魔だからあっち行って、とか言われたらどうしよう、と思いつつ、返事を期待するでもなく期待していると、
「難しくない」
咲翔が応えた。
小学生のころに好きな子に話しかけられた時のようなうれしみが胸に広がった。
彼は、「けど」と言って続けた。「声が変」
このアニメは放送期間が長いため途中で声優が一新していて、再放送の声は昔のものだった。新しいほうから入った今の子からすれば違和感を感じるのだろう。
「俺は昔の声のほうが好きだけどなぁ」
「お父さんもそう言ってた」
「お父さんとはいつもどんなことして遊んでるんだ?」
参考にできるし、これはいい質問なんじゃないか、と自画自賛したい。
咲翔は目だけで俺を一瞥してからそっけなく答えた。「お父さんと遊ばない」
質問をミスった感がすごい。
沈黙にアニメキャラの声が立つ。
「裕也さんは──」やおら咲翔が口を開いた。「子供の時お父さんと何してたの」
「ええと……」俺が幼稚園児のころに父親が蒸発して以来会っていないからほとんど記憶にない。何と答えようか。「……サッカーとか、かな」
そんな思い出はないが、中学生のころの部活がそれだったから深く考えずに言っただけだ。
「幼稚園でやった」咲翔は小さく答えた。
「やりたいか? ボールならあるぞ」
咲翔はもう一度俺を見てから、「……やる」
小学生のころに好きな子に、一緒に帰ろう、と誘われた時のようなうれしみが胸を満たした。
「もう少しでごはんできるから、食べたら公園でやろうな」
「うん」
顔を綻ばせはしないが、声はうれしそうにも聞こえた。
「それでうれしくてわざわざ報告に来たんですか?」
マッシュルームを切りながら愛理は、おかしそうに微笑して言った。
「ま、まぁ」いいじゃねぇか、別に。
「裕也さんって、意外と子供好きなんですね」愛理はやはり愉快そうに言った。
「そうなのかな……」
そんなふうに考えたことはなかった。子供と関わる機会がなかったから当たり前だが。
「というかよ、意外っていうのは、俺は子供に冷たそうに見えるってことだよな?」
「いえ、そんなことは」愛理は俺を見ようともせずに答えた。明らかに口元がにやけている。
「まぁ自覚はあるからいいけど、それを言うなら愛理も似たり寄ったりだと思うぞ」
どちらかと言わなくても愛理は、今はまだ稚気を残しているが、クールな顔立ちをしている。氷属性のお嬢様といった雰囲気だ。
「そうですかね……」愛理はしょんぼりした。
気にしていたのか、と思うと妙なおかしみが湧いてくる。ふふ、と含み笑いが洩れた。
ちょっとむっとしたような顔をすると愛理は、
「暇ならそれでサラダを作ってください」
と千切りキャベツの入ったボールとその隣の鰹節を示した。水気を絞って和風に仕上げろ、とのこと。
俺は素直に首肯した。
本日のメニューは包むタイプのオムライスとキャベツの和風サラダ、コンソメスープ──これはお湯をそそいだだけだが──だ。
ダイニングテーブルは幼稚園児には少し高いので、リビングのローテーブルでの昼食となった。
「すごい……」
つぶやいた咲翔の視線の先──オムライスの上には、先ほどまで観ていた国民的アニメのキャラクターがいた。愛理がケチャップで描いたのだ。オタクの性なのか、細部までしっかりと再現されている。
「さぁ、冷めないうちに食べましょ」愛理は得々とした微笑を漂わせて言った。
「うん」咲翔は答え、小さく、「いただきます」をして食べはじめた。
咲翔は無言無表情だが、もりもり食べているので、おいしいのだろう。
母さんたちと囲む食卓とは違った空気が、子供の力だろうか、確かに流れていた。咲翔を中心に世界が回っているような──と言ってしまうと流石に大げさか。
しかし、こういうのも悪くないな、と思う。
欲を言えば、咲翔の子供らしい表情が見たいところだが。
この時代にはすでに球技のできる公園はかなり少なくなってきていたが、幸いなことにボール遊びの可能な大規模な都立公園が近所にある。
昼を食べて落ち着いたら、早速、三人でそこを訪れた。
快晴の土曜日ということで、家族連れやカップルとおぼしき人たちが多く、めいめい楽しげにしている。
俺と咲翔は、木の下にあるベンチに愛理を残して芝生の開けた場所に移動した。運動が苦手な愛理は、優雅に見物である。
俺が昔使っていた子供用のサッカーボールを青々とした芝生に転がしておいて準備運動を済ませると、足の甲や膝を使って、ボールとじゃれるようにぽんぽんとリフティングする──主観的には、お遊びのフットサルを除けば、およそ二十年ぶりの蹴球だったが、肉体年齢が若いせいか記憶の中のイメージどおりに体が動いた。
「いくぞー」
少し距離を取ってボールを待ち構えている咲翔に、コントロール重視のインサイドキック──足の内側でのキック──でボールを放つ。
まっすぐに転がっていったボールを、咲翔は足の内側で危なげなく受け止めた。足腰の使い方が柔らかく、見ていて安心感がある。
「上手い上手い」
と俺は声を飛ばしたが、咲翔はしれっとしていて、喜色は読み取れない。その気抜けたような無表情のまま、俺と同じようにインサイドを使ってボールを蹴った。
正確に俺の足元に来たボールを受け止め、蹴り返す。
そんなふうな応酬を何回かこなすと咲翔は、ボールをキープしたままくるりと反転し、更に距離を開けた。
続いて咲翔は右足でやや右前にボールを転がし、踏み込んだ左足を軸にして右足を振り抜いた。足の甲、親指の付け根の辺りで蹴るインフロントキックだ。
つまり、強く蹴りたかったらしい。
いい角度で浮き上がったボールは、きれいな放物線を描いて俺の胸の辺りにやって来る。
全身を使ってその勢いを殺すようにして胸でトラップ、ボールは狙いどおり足元に落ちた。
「……」上手いな、この子。ボールの回転もきれいなら、ボールに視線が固定されているわけでもない。「サッカー習ってたりするのかー?」
声を張って聞くと、咲翔はかぶりを振った。
才能の暴力というワードが脳裏をよぎった。
その後は長距離でのパスやサッカーテニス──リフティングでするバレーのような遊び──、ワンオンワン──一対一でのボールの取り合い──を楽しんだ。
おじさん、もう疲れたよ……。
というほどではないが、いったん休憩することにした。愛理の所に戻る。
「お疲れ様です」
愛理はいやに上機嫌なニコニコ顔でペットボトルのお茶を差し出した。保冷バッグに入れて持ってきたものだ。一人一本で、三人分ある。
受け取って喉を潤す。
「咲翔君、サッカー上手だねー」
愛理が優しく声を掛けた──咲翔を挟んで左右に高校生組(ミドサー)が座っている。
「うん」と曖昧な返事の咲翔の顔は、やはり浮かない。
「あんまり楽しくなかったか?」俺は尋ねた。
「ううん、ぼくサッカー好きだよ」咲翔は静かに答えた。
人様のことに踏み込むのは憚られないでもないが、俺は心の殻の内側にそっと手を伸ばすように慎重に尋ねた。
「幼稚園とかうちで困ってることがあるのか?」
咲翔は俺の顔を見上げた。くるりと首を回して愛理を見て、また俺に顔を向けた。たっぷり瞬き三回分の間があって、
「……わかんない」咲翔は視線を前方に逃がして答えた。
「話したくないならもう聞かないけど、話してみたらいいことがあるかもよ」などと俺は適当を言う。
先ほどのように俺と愛理を交互に見やった咲翔は、おずおずと打ち明けた。
「……ぼくのお父さんとお母さん、仲悪くて、家にいると疲れる」
愛理も質問を差し挟む。「どんなふうに仲が悪いの?」
「お父さんはいつも仕事で家にいなくて、お母さんはいつもお父さんの悪口言ってる。一緒にいてもおこってるみたいな感じで怖い」
「……」「……」
俺と愛理は顔を見合わせ、ぎこちない苦笑いに頬を歪めた。
──何て答えればいいんだ?
──知りませんよ。いいことがあると言ったのはあなたなんですから、あなたが答えてあげてくださいよ。
俺と愛理は瞬時に目で相談したが、何の益もなかった。
目を落とせば、期待の色をたたえた純粋そうな瞳が俺を見つめていた。
「え、ええと……」俺は苦し紛れの希望的観測を口にする。「お父さんも、本当はお母さんを嫌っているわけじゃないよ」
「そうなの?」にわかには信じられないとばかりに咲翔は目を丸くして聞き返した。「でも、じゃあ何でうちに帰ってこないの? 好きならちゃんと帰ってくるんじゃないの?」
咲翔の向こうで愛理がしきりにうなずいている。
俺の気分は針の筵に落とされたかのようだが、
「い、いや、そうとも限らないんだ」何とか答える。「家族のことが大切だと仕事をがんばっちゃうから、それでなかなか帰れないんだよ」
そうだったんだ……。
咲翔は素直そうにつぶやくと、くるっと愛理に体を向けた。
愛理は身構えるように体を強張らせた。
咲翔は言う。
「でも、それなら何でお母さんはお父さんのこと悪く言うの? 自分のためにがんばってくれてるお父さんのこと悪く言うのおかしいよ」
「え、ええと……」困り果てたように目を泳がせること数秒、愛理は重たそうに口を開いた。「お母さんはね、お父さんがいなくて寂しいんだよ。でも大人だからわがまま言えなくてつらくて、その、つらくてどうしようもない気持ちを、ついつい咲翔君にぶつけちゃってる……たぶんおとなしい咲翔君に甘えてるんだよ」
そうだったんだ……。
咲翔は再びつぶやくと、愛理から視線を外し、悩ましげに、芝生を眺めるともなく眺める。そして、
「大人は大変なんだね」とぽつり。妙に大人びた物言いだった。
「そ、そうだな」俺はその様に気圧されたような心地がしたし、
「そ、そうね」愛理も似たようなものだろう。
咲翔はどちらにともなく尋ねた。「お父さんとお母さんのこと、どうすればいいかな」
これには愛理が答えた。「咲翔君が二人を遊びに誘えばいいんじゃないかな? みんなで一緒に遊べばきっと仲直りできるよ」
「そうだな」俺も追従する。「親に商品を買わせるにはまず子供を落とせと言うし、咲翔が動けばお父さんとお母さんも動く……かもしれないな」
「でも、嫌だって言われたらどうしよう」咲翔は自信なげだ。
「そのときは駄々こねちゃえ」愛理はおどけるように笑って言った。
「そんなの悪いよ」
遠慮する幼稚園児に、高校生二人は微苦笑を零した。
「子供はそんなこと気にしなくていいの」愛理が言い、
「ああ、我慢は必要だけど、しすぎるのも良くないものだよ」俺も続けた。
「……」少し考える間があって咲翔は首肯した。「わかった、やってみる。それで裕也さんたちみたいに仲のいいお父さんとお母さんになるなら、がんばる」
「いや俺たちは」「まだ結婚していないのよ」
咲翔は俺たちを交互に見て、それから小首をかしげた。「言ってること、よくわかんない」
何でそこだけ物わかり悪いんだよ?
時刻は午後四時になろうかというところ、家に帰ろうと都立公園を出たところで、咲翔がためらいがちに言った。
「コンビニでアイス買ってほしい」
少し驚いた。遠慮しなくていいというのを素直に受け入れたのだろうか。あるいは、少しは心を開いてくれたのだろうか。だったらいいな、と思う。
「いいぞ」と俺が了承すると、
「みんなで食べましょうか」と愛理が提案した。
やった!
咲翔は子供らしい無邪気な笑みを弾けさせた。
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