⑤
『ほら見て! 今日の差し入れ、高級焼肉弁当やった!〈豚生姜焼き弁当の画像〉』
『美容院行ってきた!
めっちゃかわいいやろ? ガチ恋してもええでぇ♡〈自撮りの画像〉』
『ドールズの子らとごはん行ってきたー!
みんなむっちゃかわええやろ? ゆうくんはどの子が一番タイプなん? 一人一人点数つけて教えてや!〈女子五人の画像〉』
『ゆうくん大好きー!♡♡♡』
『ゆうくんはあたしのこと好き? 好きやんな? 早く会いたいな♡』
『???』
『ゆうくん今何してん?』
『何でたまにしかメール返してくれへんの?』
『電話も全然出てくれへんやん
どゆこと???』
『忙しいん?』
『あたし何かしてもうたかな』
『気に入らんとこあるなら言うてや
死んでも直すから』
『寂しい』
『ごめん、あたし重いやんな』
『会いたい』
『会いたい』
『あいたいあいたいあいたいあいたい』
『〈クレジットカードと一万円札の画像〉』
『〈手ブラの谷間の画像〉』
『〈手で陰部を隠した太腿の画像〉』
『なんでもするから』
『たすけて』
『しんどい』
『いややいややいやや』
『こわいこわいこわい』
『ゆうくんゆうくんゆうくん』
『ゆうくん』
『おねがい』
『ゆうくん』
『きらいにならないで』
『ゆうくん』
『いなくならないで』
『ゆうくん』
『ゆうくん』
『』
『』
『』
『』
『』
十六夜からのメールはすごいペースで来るからいちいち応対してたらタイパが悪いし、内容も取るに足りないものばかりだから、昼休みと夜にまとめて確認するようにしている。
そしたら、知らないうちに限界突破してた。今なお空メールが延々と送られつづけている。
火曜日の夜だ。誕生日から二日経っている。
愛理とはほとんど会話していない。彼女は内向的というか、本心をあまり表に出さないで自分の殻にこもるタイプだから、一度冷戦状態に入ってしまうと雪解けまで持っていくのはなかなかに難しい。
それに引き替え十六夜と来たら、えらいガツガツ来るじゃん。
大学生のころにメンヘラっぽい子と付き合っていたこともあるが、十六夜はレベルが違う。アイドルとしてのプロ意識がかろうじてリスカを踏みとどまらせているのだろうが、この惨状にリスカ写メ連打さえ加われば役満であろう。すばらしい才能だ。
メールの内容にはいろいろと突っ込みどころがあるが、まず言いたいのは、
『俺はお前の彼氏じゃない』
ということだ。十六夜のメールを読んでいると、どうにもそういう立ち位置に収められているように思えてならない。不安である。
ポチッとメールを送信した、次の瞬間、
──プルルルル、プルルルル……。
携帯電話が鳴った。言うまでもなく十六夜からだ。
馬鹿なっ、早すぎるっ。
などと戯れ言めいて通話に応じた──自室だから家族に聞かれる心配はない。
『tjpmbwga3p6ta2pwb4WM!!』
初手、怪音波──すなわち、絶叫にも似た意味不明な言葉の羅列。流石である。
携帯を離して観察すると、息遣いから号泣していることが窺えた。
再び耳を近づけると、
『ゆうくんっ、ひっく、ごめ、ごめんなさい、ぐすんっ、わがっでるけどぉ、ひっく、どうじでもがみゃんできへんくてぇ』
「いつもはここまでにはならないのに、どうした? 何かあったのか?」
話聞こかムーブは正直したくないが、聞かないと話が進まなそうなので仕方なくそう尋ねた。
『うぅ、あたしぃ、ふしだりゃでぇ』
「それは知ってるが」
『ひっく、引かんとってなぁっ、あたしぃ、ひっく、えっちせんと眠られへんねんっ、最近ずっとしてへんくてぇ』
それでメンタルを崩した、と。
「ああ、そう」
何だ、ただのセックス依存か、といったところ。
『びぇえええんっ、塩対応すぎやぁ~っ!』
「適当な相手とヤればいいじゃん」
『うぇえええんっ、それがアイドルに言う言葉かぁっ!』
「泣きツッコミとは、器用だなぁ」
『ふぇえええんっ、そんな器用さいらんねんっ!──って、やらすなや!』
「ああ、そういや、事務所から色恋禁止令が出てんだっけか」
『そやねんっ、それでしんどいねんっ』
「で、手頃な依存先の俺で不安を誤魔化そうとした、と」
『せや! だからもっと構うてや!』
「そろそろ勉強したいから切っていいか」
『あたしの話ちゃんと聞いとったか? 何でそない殺生なこと言うん?』
「俺は自分勝手な人間だからな」
『……』
「どうした? 急に黙り込んで」
『何か、ゆうくん元気ない』
「そうか?」
『うん、何かあったん?』
話聞こかムーブ返し……だと……?
驚愕はさて措き、
「……義妹と喧嘩しただけだよ」
『……ほんまにそれだけ?』疑わしそうな間、そして声。
「ああ、そうとしか言えないよ」外形的にはな。
『ほーん、ま、ええけど』
「ああ、じゃあそろそ──」
『明日デートしよか』十六夜は俺の言葉に被せて言ってきた。
「何でやねん」と、これは俺。
『ふへっ、似非関西弁っ、ふへへへへへっ』
何がそんなにおかしいのか、十六夜は笑い転げている。さっきまで泣いていたのにこれとは、情緒不安定すぎる。
ひとしきり笑いおわると十六夜は、デートとやらの時間と待ち合わせ場所をテキパキと決め、通話を切り上げる気色を見せた。
『忙しいのに話してくれてありがとうな』
「ああ」
『大好きやよ、ゆうくん。ほんまに好き』
「はいはい」
『アホ! そこは「俺も大好きだよ」って言うとこ──』
恋人代行をする気はないから切った。電源を落としたら、勉強始め。
待ち合わせ場所は、星高の最寄り駅の前の、謎の猫の銅像の所だ。放課後の午後四時半に落ち合う予定だった。
何だかよくわからないが、ちょうどバイトのない日だったので、行くだけ行ってみることにした。
近くまで来ると、十六夜らしき女が立っているのが見えた。
白いマスクは変装用アイテムとして、キャメル色ベースのチェック柄のショート丈のスカートを中心に、同色系のベレー帽にコンパクトなショルダーバッグ、そしてオーバーサイズの深緑色のスウェットと黒のショートブーツを合わせており、全体としては英国風ガーリーといった趣。平均よりやや高い程度の身長ながら黄金比的に均整の取れたプロポーションのため非常に様になっている。マスクさえなければ完璧だったろうに芸能人は大変だな、と同情しないでもない。
……え? 俺?
俺は制服──紺のブレザーとグレーのスラックス──のままだ。時間があれば懐かし恥ずかしの木こりコーデに身を包んでいたところだが、なかったのだから仕方ない。
ふっと十六夜が俺に気づき、目を細めて手を振ってくる。
犬が尻尾振ってるみたいだな、と思いつつ片手を上げて応えておく。
近づくと、早速抱きついてこようとするが、予想していたので闘牛士気分で肩透かしを食わせるようにしてかわす。
「何でやぁ?! 会ったらまず、ぎゅう、やろぉ?!」
「闘牛だけに?」
「やかましいわっ! あたしは牛ちゃうねん!」
十六夜は今日も元気一杯である。
デートプランはあるのか尋ねると、
「特別ライブや!!」
十六夜はどや顔で声高らかに宣言した。通行人が怪訝そうにチラ見して過ぎていく。
ライブって何やねん、と訝りつつ、十六夜に引っ張られて歩くこと数分、目的地──七階建てのビルに着いた。正面入り口の上の赤いプレート看板には、白文字で『カラオケ』とある。
何のことはない、カラオケで歌おうということだったのだ。
まぁたしかに十六夜はプロだから、ライブと言い張れば、狭っ苦しい個室でのカラオケでもライブになるのかもしれない。
──いや、そうか? ならなくないか?
と思わなくもないが、
「ふんふんふん♪」
上機嫌に鼻歌を口ずさんでいる十六夜に野暮なことは言うまい。
十六夜は予約──もちろん偽名で、だ──していたようで、受付はスムーズに済み、薄暗い通路の奥の、いかにもいかがわしいことに使われていそうな個室へと案内された。流石はふしだら関西娘である。チョイスに抜かりがない。
部屋は思いのほか広く、向かい合うように置かれたソファーも大きくてゆったりと座れそうで、大きな液晶ディスプレイの前にもちょっとしたスペースがあり、学生の馬鹿騒ぎにも対応している。いわゆる高級店ではない普通の店にしては上等な部類だろう。
十六夜はショルダーバッグとベレー帽をテーブルに置くと、マスクを取り、
「メイク直ししてくる」
と言い出した。マスクで崩れたのを整えたいらしい。女心などというものはいくつになっても解せぬが、好きにしてくれ。
その間に俺はドリンクを取ってきておこう。
部屋を出ようとすると、
「えへへ」十六夜はうれしそうに相好を崩しながらべったりくっついてくる。故意か過失か、程よいボリュームの胸が俺の腕に押しつけられている。「途中まで一緒に行こ」
「まぁいいけど」
片腕を十六夜に絡め取られていて微妙に動きにくい中、ドアを開ける。
と、向かい側の部屋から出てきた女──高校の制服を着崩した葉山と行き合った。
葉山は目を見張り、咄嗟に俺の後ろに隠れた十六夜と俺を交互に見やると、
「お前彼女いたのかよっ?!」
よほど意外だったのか、悲鳴にも似た驚愕の声を上げた。
「いや、ただの……」
と、そこで言葉に詰まった。
彼女? 絶対違う。友達? 何かしっくり来ない。知り合い? まぁこれだよな。
「ただの知り合──い゛っ」
十六夜が俺の尻をつねったのだ。
葉山は、なるほどそういう関係性な、というふうに細い顎先を掴んでうなずいた──お前そういうキャラだったか?
葉山は訳知り顔で、
「照れんなよ。そういうときはちゃんと彼女だって言ってやるもんだぜ?──」
なぁ? と十六夜に水を向ける。
十六夜は肩越しに顔を覗かせ、
「本当ですよ。さんざん好き放題に弄んでおきながら、ただの知り合いだなんてひどすぎます」
「誰だお前?」
俺は内心で首をかしげた。入れ替わりトリックか? どっかに双子の伏線あったか……?
葉山は、やれやれしょーがないやつだな、というふうに溜め息をついた──お前も誰だよ?
十六夜がトイレに消えると、ドリンクバーには俺と葉山だけになった。彼女も飲み物を取りに出てきていたようだった。
シュワシュワと弾けるメロンソーダをグラスにそそぐ俺に、葉山は話しかけてきた。
「お前の彼女ちょーかわいいじゃん。あんな上玉どこでつかまえたんだ?」
ドールズの十六夜希だとは気づいていないようだった。まさか一介の高校生の彼女のわけがないというバイアスのせいか、少し泣き腫らしている目のせいか、理由は判然としないが、とにかく助かった。
俺は答える。
「道端に捨てられている子犬がいるとしますよね? 気まぐれに優しくしたら妙に懐かれてしまうこともあるかもしれない。においを頼りに学校にだって来る。仕方ないから餌をやる。そうしたらもっと懐かれてしまった──そんな感じですかね」
「さっぱりわからん。ガリ勉野郎の話はわかりにきぃんだよ。もっと簡単に言えやボケ」
言葉の割に語気は穏やかだった。
「んー」少し考え、「じゃあナンパですかね」
「お前が? ありえねぇだろ」
葉山の言はもっともだった。
ドリンクを入れおわって、さぁ部屋に戻ろうというところで、葉山がまた口を切った。
「この前はサンキューな」
どういたしまして、と顔を向けると、背の高い葉山は、女子トイレを一瞥してから俺の耳元に酷薄そうな薄い唇を寄せてきた。
「一分千円に負けてやるから、ほかの女で火遊びしたくなったら言えよ」
驚いて葉山の顔を見たら、ほんの少し頬を赤らめていた。
「……」俺は呆気に取られて言葉を失った。
「……何か言えや」沈黙に耐えかねたのか、やがて葉山はぽつりと言った。
「デレ方の癖つっっっよ!!」
「デレてねぇよ!!」
いつもなら拳が飛んできそうなものだが、ドリンクを持っているおかげか被害はなかった。やはりいい子(?)である。
「なかなかきれいな子やったなぁ? どういう関係なんや?」
少しして部屋に戻ってきた十六夜は、ソファーに座る俺に横から迫りながらうざ絡み親父のようなことを言ってきた。
「バ先の子だよ。店で見たことないか?」
「あっこのコンビニ行かへんから」
十六夜はメロンソーダをちゅうと吸った。その、妙に色っぽい唇を離すと、
「どうでもよさそうやね。やっぱりゆうくんの本命は義妹ちゃんなんやな」
「……もう終わった関係だよ。俺が終わらせたんだ」
自分でもなぜこんなことを言ったのかわからない。適当にはぐらかしたほうがよかっただろうに。十六夜のまとう、人を惑わし惹きつける独特なオーラが、悪さをしたのだろうか。
「ほーん?」
十六夜は鼻先が触れんばかりに近づいて、内心を探ろうというのか、俺の目を覗き込んでくる。
見返すでもなく見返す、そんな曖昧な仕草の奥に十六夜は何を見たのだろう。にこっと笑って、よしよしと俺の頭を撫でた。
憮然としている俺を残して十六夜は、パッと立ち上がった。
「ライブ開幕や!」
十六夜は慣れた手つきで、恥ずかしげもなくドールズの曲を入れた。
普通の感性をしていたら自分の曲は嫌がりそうなものだが、そんな気色はない。イントロが始まって本人映像が大型の液晶画面に流れても何のその、職人技めいた蠱惑的な笑みを口元に漂わせマイクを持って立っている。
わーぱちぱち。
というキャラではない俺は、脚を組んでオレンジジュース片手にのんびり見学の構え。
あと少しで歌い出しというところで、
「あ、やば」十六夜は何やら不穏なつぶやきを洩らした。
「何?」俺は問うた。
「この楽曲、どうがんばっても一人じゃ無理なんや」
「そこは適当に誤魔化して歌えばいいんじゃないの」
と返しつつ嫌な予感はしていたし、その予感は的中した。
十六夜は俺の手を取り、
「一緒に歌お?」
たぶんしこたま金をむしり取れる笑顔で俺を誘ったのだった。
え? その結果どうなったか?
歌ったさ。歌ったけどさ。アイドルになんて一ミリも興味のない素人にまともに歌えるわけもなく、生温かい半笑いを向けられつつ、開き直り半分、やけくそ半分で無理やり乗り切った。
「下手っぴやなぁ」
と笑う十六夜に、俺は意趣返しを決意した。
「次、洋楽歌うぞ。グループの歌だから一人じゃ無理なんだ。一緒に歌ってくれるよな?」
十六夜は馬鹿だから英語は無理だろうと思っていたのだが、
「ええよ」
あっさりと了承してきた。
邦洋問わず有名どころはだいたい歌えるらしかった。仕事として歌を歌っている人間の実力を見誤っていたと言わざるを得ない。
「英語むっちゃ上手いやん」
と十六夜は言ったが、裏を返せばそれは、英語以外に褒めるところがないということである。肌きれいだね、とか、優しそうな人だね、の類い。
俺は諦めた。土台無理だったのだ。現役のトップオブトップアイドルに歌という土俵で一矢報いるなど、素人にできるわけがない。
ソファーにもたれて俺は、オレンジジュースを吸う。
「もう、拗ねへんの」
十六夜は幼子をあやすように言うと、再びドールズの曲を入れた。
「今度こそちゃんとライブするで。見ててな」
そうして、今度こそ十六夜は歌い出した──否、パフォーマンスを始めた。
計算され尽くした小悪魔な笑み、男心をくすぐる洗練された仕草、そして可憐でありながら伸びやかな歌声──なるほどたしかに本物だな、と納得するすばらしい仕上がりだった。
まぁ金払ってまで見たいかというと、たとえ逆行前のように高収入だったとしても、遠慮させていただくが。
「どや?」
曲が終わるなり十六夜は、どや顔のお手本を見せた。
「すごいと思うよ」どや顔の完成度が。
「何やしょっぱい反応やな」
十六夜はご不満な様子。職業病か、あざとく唇を尖らせている。そこらのぶりっ子とは格の違う、全女子が反面教師にすべき嫌らしさだ。
その様がどうしようもなくおかしくて、
「ふっ」
と微苦笑が零れた。ふふ、と鼻息で笑う。
十六夜の口が「お」というような形に変わった。「やっと笑ってくれたぁ」と気の抜けたような微笑をたたえる。
「ありがとな」俺は言う。「元気づけようとしてくれてたんだろ? おかげで今は楽しいよ」
「えへへっ」ふにゃっと笑み崩れると十六夜は、密着するように横に座り、しなだれかかってくる。「ご褒美ちょうだい」
マジで犬みたいだな、と思いつつ、「ファミレスくらいなら奢るが」
「あたしが欲しいのはそんなんちゃうねん」
「ブランドもののバッグでも買えってのか?」
「アホ、そんなんやない」
「まさか車とかマンションとかか? そんなの要求されても絶対無理だぞ」
ぷはっ、と十六夜は噴き出した。「高校生にそないなもんねだる女おらんて」
「高校生じゃないならねだるのか」
十六夜は、へへっ、と誤魔化すように笑った。そして、言った。「ぎゅうってして」
「無理」
「何でやねん! こないに安上がりな女おらんやろ?!」
「これ以上依存されたら困る」
「もうこれ以上ないくらい依存しとるから気にせんでええで」
「盗人猛々しいとはこのこのか」
「先に盗んだのはゆうくんのほうや」
「それでも、やりたくないんだが」
「嫌や嫌や、ぎゅうしてくれるまで今日は帰さへんからな!」十六夜は俺の手を固く握った。「絶対放さへん!」ふんす、とばかりに気合いのこもった声だった。
「……」「……」
無理やり押しのけることはできるが、十六夜のかすかに震える息遣いから伝わってくるおびえと不安が、俺を甘くさせた。
「仕方ないな、今日だけだぞ」
言った瞬間、十六夜の満面に喜色の笑みが広かった。「えへへ、流石やでー! ごねれば割と何とかなるゆうくん大好きや!」
「こんなにうれしくない好意、初めてだよ」
そうして、十六夜はショートブーツを脱いだ。
何をするつもりなんだ? と訝り見ていると、彼女は俺と向かい合うようにして俺の太腿を跨いで腰を下ろした。いわゆる対面座位の格好である。
十六夜は腰を反らせるようにしてぴたっと密着してくる。俺は半ば無意識にその細い腰に腕を回した。
十六夜の柔らかさと温かさが全身に感じられ、その肌から漂う瑞々しくも濃厚な雌の香りが鼻腔を満たすと、女体を欲する情動がにわかに突き上がってきて真っ白い光となってまなうらでひらめいた。思わず生唾を飲み込む。
「ゆうくんの、すごく熱い」十六夜は言い、ひひっと悪戯っぽく笑った。「早くぎゅうして」
俺は、腰の奥で焦れている劣情に逆らうようにあえてゆっくりと抱きしめた。
「んふぅっ」十六夜はしどけない吐息を鼻から洩らした。かと思ったら、「ゆうくんゆうくんゆうくんゆうくんゆうくんゆうくんゆうくんゆうくんゆうくんゆうくんゆうくんゆうくん──」
壊れた。
恐怖である。
おそるおそる十六夜の背中に回した腕を離した。
と、
「──ゆうくんゆうくんゆ……?」ぴたっと声を止めて十六夜は、不思議そうに俺の目を見つめた。「何でぎゅうやめるん? するって言うたやん? 何でなん? 嘘ついたん? あたしのこと嫌いになったん?」彼女の瞳に涙がじわっとにじんだ。「嫌や嫌や嫌や! 一人は嫌や! ずっと一緒や約束したやん!」
たまらず突っ込む。「いやそれは言ってない。どさくさに紛れて地獄への片道切符を捏造しようとするな」
──ちっ。
舌打ちが聞こえた。
「せやけど、ぎゅうはするって言うた!」十六夜は気を取り直すように言った。
「わかったよ。わかったけど、さっきみたいにバグらないでくれよ」
「努力はする」
再び腕を回して十六夜を抱き寄せた。
「んっふぅ~っ」
十六夜はやたらと熱っぽい息を吐いたが、はぁあふぅ、はぁぁふぅうぅ、というように何かをこらえるように震える呼吸を繰り返しながら時折体を、特に腰の辺りをぴくっ、ぴくっと痙攣させるばかりで正気は保っている(?)。
がんばっているようなので、いい子いい子、と撫でてやる。
「!?!?!?」
驚いたのか、十六夜の体が大きく震えた。
「嫌だったか?」と尋ねると、
「嫌やない、もっとやってええ。むしろずっとやるべきや」
「いや、もうやらないけど」
「何でや!?」
「お願いされるとやりたくなくなる」
「天の邪鬼っ!!」
二人きりの小暗い密室で抱き合ったまま、蜜語を交わすでもなく、たわいもない会話を始めた。小さいころ嫌いだった食べ物は何か、バレンタインチョコは最高で何個か、犬派か猫派か、そんな話だ。
しかし、乗られている脚が怠くなってきたからもうそろそろどいてほしいなぁ、と思いはじめたころ、
「前にあたし、自分のおとんのこと知らへん言うたやろ?」
十六夜は突如として、いかにも重そうな、そして長くなりそうな身の上話を始めた。
俺は十六夜から見えない位置で顔をしかめた。
が、流石に空気を読んで口をつぐみ、耳を傾けているふりに努めた。
・母子家庭で、父親は顔も知らない。
・寂しい幼少期を過ごした。
・子供のころは、当時人気だったアイドルを見ては、自分が彼女の立場にいる空想に耽って自分を慰めていた。
・自分も誰かの心を救えるアイドルになりたいと思うようになった。
・中学生のころは少し荒れていた。
・性被害を何度も経験している。
・依存心と恋愛感情は強いが、セックスは嫌い。
・しかし、セックスしないと眠れない(不安感が増していく)。
これらについては想定内だったし、何ならメンヘラテンプレセットみたいなものだし、驚きはなかった。
が、上記のもの以外に一つ、予想外の事実があった。
それについて、
「本当なのか?」と尋ねると、
「ほんまや」十六夜はためらうそぶりもなく首肯した。
しかし思い返してみると、たしかに彼女は嘘は言っていないし、矛盾もない。
「嫌いになった?」
不安そうに尋ねてくる十六夜に、俺は言った。
「ごめん、もう終わりにしよう」
失望、絶望、怒り、憎しみ、悲しみ、執着心──そういった負の感情が、十六夜からどろりと溢れ出すのがわかった。
慌てて俺は言い足した。
「脚痛いからもう下りてくれって意味だ。嫌いにはなってないよ」
十六夜は一瞬呆けた後、「紛らわしいわ!」
そうして彼女は俺の太腿から離れ、俺は胸を撫で下ろした。
その後の彼女はいやに上機嫌で、「ゆうくん好きー! 大好きー!」とそれまでの五割増しくらいの勢いでベタベタしてきていた。
鬱陶しいが、かわいいのも事実だ。今度お手を仕込んでみよう。
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