闇のバイト
仁木一青
バイト1日目
今でこそ会社で「君は本当に好青年だね」なんて言われることもあるけど、高校生のときはちょっとしたワルだった。
べつに自慢したいわけじゃない。
むしろ、できることなら誰にも話したくない。
でも今日は、俺みたいな馬鹿をこれ以上増やさないために、あのころにかかわってしまった闇バイトの話をしようと思う。
きっかけは、地元の悪い先輩に焼肉を
当時は先輩に目をかけられてるって、すっかり舞い上がっちまった。
初めて入ったお高い焼肉店だ。先輩は「どんどん食えよ」と言って、テーブルいっぱいに肉を注文する。高級な上カルビなんかもバンバン頼んでくる。
俺は先輩の機嫌を損ねないように様子をうかがいながら、それとなく口を開いた。
「旨い仕事があるなら、俺にも回してくださいよ」
けれど先輩は話をはぐらかし、「デザートも食えよ」と言って、テーブルに黒蜜だんごやら
しつこく何度も水を向けてみて、ようやく食後のウーロン茶を飲み終える頃に先輩は教えてくれた。
しぶっているように見えたが、きっと最初から決めていたのだろう。
結局、俺に押しつけるつもりだったのだ。
先輩のようなワルくてちょっと頭の回るヤツは、自分から頼んではこない。
目下の側から何度も頼みこませ、しぶしぶ承諾したふりをする。
まあ、そんな単純なことも当時の俺にはわかんなかったんだよなあ。
そうして、ようやく話してくれたのがあの闇バイトだった。
「すごく簡単で儲かる、タイパ最強の仕事なんだ。ただ、誰にでも任せるってわけにはいかねえ」
「……」
そのときの俺はたぶん、肉屋の前にいる犬みたいな顔をしていたと思う。
じろりと俺を値踏みした先輩は、しばらくして、お前には負けたというように大きくうなずいた。
「しゃあねえか。お前にそのバイトやるよ」
そう言って先方に電話をかけると、有無を言わさず「明日行ってこい」とだけ告げられた。
指定されたのは、繁華街の外れにある古びた雑居ビル。テナントは一階にクリーニング店、二階には聞いたこともない英会話教室だけがぽつんと入っている。
こんな場所の英会話教室に本当に通うヤツなんているのか。
そんなくだらないことを考えながら、狭いエレベーターに乗ったのを覚えている。
薄暗い箱の中。錆びた金属の臭い。ボタンを押すと、「5」の数字が弱々しく点灯した。
危なっかしく揺れながら上昇するにつれて、妙に心臓がドキドキしてきた。期待なのか、不安なのか、自分でもよくわからない。
五階に着くと、パイプ椅子に座った男が競馬新聞を読んでいた。
角刈りで、ボロビルには不釣り合いな派手なスーツを着ている。
顔を見た瞬間、直感が告げた。
あ、これ、カタギじゃないな。
そいつは一瞬だけ顔を上げて、俺を見てまた新聞に目を落とした。
その刹那の視線が、全身を値踏みするようだった。
試されている。若くて生意気だった俺は、そう思いこんだ。
腹の底からの大きな声で挨拶した。
「紹介で来ました! 今日からよろしくお願いします !」
男は新聞をめくりながら、「んなでかい声じゃなくても聞こえてるよ。今日からよろしくな」と、今度は俺の顔をちゃんと見て微笑んだ。
見た目を裏切るやわらかい物腰に少し安心したし、これでテストに合格したと内心喜んだ。
いまならわかるよ。
俺みたいな若いアホを調子に乗らせたんだなって。
夜逃げの後のようにがらんとしたフロアの中央に、パイプ机がきっちりと整列していた。
周囲には何もなく、その整然さがかえって不気味だった。
そして、机の上にお椀がずらりと並んでいた。中に白いガーゼに包まれた何かが沈んでいる。ガーゼは部分的に黒ずみ、赤黒いシミがにじんでいるようだ。
見てはいけないものを見た気がして、背筋がぞわりとした。あのガーゼの下には一体何が入っているんだ。赤黒いシミ……乾燥した血のようにも見えるし、腐った何かから染み出した汁のようにも見える。
でも、聞いたら怪しまれる。ここで変に疑われて仕事を失いたくない。
「あんまりじろじろ見るもんじゃねえぞ」
のんきそうに言った男のつぶやきを警告と受け取った俺は、そっと視線を外した。
仕事は単純だった。
ペットボトルの水を、お椀に八分目まで注いでいくだけ。
「ほい、これを使いな」
手渡されたのは、厚手の青いゴム手袋だ。炊事で使うようなよくある市販品に見えた。
「ゴム手をつけて、水を注げ。八分目な。あふれさせるなよ」
もうひとりのバイトに来たおっさんと手分けして作業を始めた。
パイプ机が十列ほど並んでいて、一列に二十個くらいお椀が置いてある。全部で二百近くあるだろう。俺は左側の列を、おっさんは右側の列を担当する。
机のすみに置いてあったペットボトルのキャップに手をかける。厚手のゴム越しの指先はひどく不器用で、小さなキャップをつまむのに苦労した。スーツの男の視線が背中に突き刺さっているようで、余計に指が滑った。
「兄ちゃん、あわてんなよー」
のんびりした男の声を背中に受けて、大きくうなずいておいた。
どうにかキャップをねじ切る。2リットルの角型のボトルを持ち上げ、最初のお椀にゆっくりと水を注ぎかけた。
薄汚れたガーゼに包まれた何かの周りを、水が静かに満たしていく。
男の指示どおり八分目。水面がお椀の縁から1センチくらい下で止める。
水を入れてもガーゼが浮き上がってくることはないようだ。
男の視線を感じながら、二つ目、三つ目と進めていく。
水を注ぐだけの作業だが、丁寧にこなすとなると意外に難しい。勢いよく注ぐと水が跳ねるし、ゆっくりすぎると時間がかかる。
それでもだんだん慣れてきた。
リズムができてきて、ボトルの傾け方のころあいもつかめてくる。考えなくても手が動く。
そして、作業が単純な分、どうしても雑念が浮かんでくる。
いったいぜんたい、俺は何をさせられているんだ?
何か取り返しのつかない儀式に加担しているような気がして、嫌な汗が背中を伝った。
なんで水を注ぐだけで大金をもらえるんだ。先輩から楽勝のバイトと聞いてはいたが、どう考えてもおかしい。俺の心の中で小さな赤ランプが
しかし、すぐに二万円という数字がネオンサインのように点滅し始めて、赤いアラートの光を塗りつぶす。
深く考えるのはやめておこう。せっかくの美味しいバイトなんだから、と。
考えたら負けだ。疑問を持ったら、恐怖が襲ってくる。だから何も考えない。ただ機械的に手を動かす。そうすれば、あっという間に終わる。そしたら二万だ。
俺は心を無にして作業に没頭した。
注意深く2リットルのペットボトルを持ち上げる俺の様子を見て男が笑った。
「兄ちゃん、それ、業務スーパーで買った普通の『六甲のおいしい水』だからさ、びびんなくても大丈夫よ」
そう言われても、俺の緊張は解けなかった。普通の水だろうが何だろうが、この状況が異常なことに変わりはない。
できるかぎり丁寧に作業したつもりだ。
それでも二百近くあるお椀に水を注ぎ終えるまで、二十分もかからなかった。
「ごくろうさん」
男がスーツの内ポケットから、いかにも高そうな飴色の長財布を取り出した。
それを開くと、ぎっしりと一万円札が詰まっているのが見えた。
札を二枚抜き取って、俺の眼前にかざした。
「ほい、二万」
「あ、ありがとうございます」
あっさりとその場で二万円を手渡された。
パリッとした万札の感触。これが本当に自分のものになったのか。こんな簡単な作業で。
二万円。
バイトで稼ごうと思ったら、コンビニで何日働かなきゃいけない?
居酒屋の皿洗いなら?
それが二十分もしないうちに手に入った。
心の中に虹がかかったようになって、心臓が高鳴った。これは本物のチャンスだ。それを俺は運よく掴んだのだと、心底信じきった。確かに怪しい仕事だが注意していれば大丈夫だ。俺ならできる。
今日でバイトをやめにしようという気分は吹き飛んでいた。
「次は三日後、同じ時間な」
男がニヤッと笑った。
「今度は倍以上の金をやる」
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