第16話 導く人々

「こっちだよ。」

それはラウルの声。見渡してもその姿は見えない。

声のした方にゆっくり足を滑らせる。

真っ暗な視界にぼんやりと浮かぶ人のかたち。

「ラウル?ユナもいるの?」

「ソルトっ!!」

この雨のせいか湿っぽいユナの声。

二歩、三歩と進んで足を止めた。

この視界にハッキリと映った二人の姿。

僕はユナとラウルを交互に見る。

言葉にならなかった。

この状況を、この感情を表わす言葉を僕は持っていない。

ユナの服が乱れていて、何故か両手首を後ろにしている。涙をいっぱい溜めた緑色の瞳は今にも落ちてしまいそう。

きゅっと閉じた口元が小刻みに震えている。

ユナの首筋に顔を埋めていたラウルが僕を見た。

狼のように鋭い真っ黒な瞳。

その釣り上がった瞳は三日月のように歪む。

僕を見上げたラウルは笑っていた。

完全に見えたユナの首筋はほんのり赤みを帯びている。

「...なに...してるの...」

訳の分からない状況に僕の声は震えていたと思う。

「ごちそうさま。」

ラウルの声はいつもと変わらず飄々としていた。

「えっ...?...」

僕はユナを抱きしめようと足を進めた。

だけどそれをラウルが制す。

ラウルの左腕はユナの肩を抱き、右手に握られた剣はユナの首筋に当てがわれる。

あまりにも重い静寂。

ラウルの瞳が僕の瞳を離さない。

「その顔その顔。やっぱソルトはそういう顔が似合ってるよ。」

ラウルは冗談っぽく笑っていた。

そして、ユナの首筋に浮かんだ赤い痕目掛けて剣先を突き立てた。

ユナの顔が一気に歪む。暗い空に吸い取られていく小さな苦痛の声。

深さ数センチのところでラウルは剣を引き抜いた。

僕はナイフをラウルの喉元に向けていた。

「君の役目はここで終わり。邪魔だからどっか行きなよ。」

ラウルはナイフを気にする素振り無く、ユナを抱く腕を離した。

ユナはゆらゆらと立ち上がる。

その首筋を流れる血から目が離せない。

ユナの両腕は麻紐で強く縛られていた。

「これは俺からソルトへの贈り物だ。一生消えない傷を見る度に思い出せるだろう?お前が今いかに幸せかって。」

ラウルは可笑しそうに笑っている。

僕はラウルを無視して、ユナの腕を纏める麻紐を切った。

細い手首に跡がくっきり残っている。

ただ無言で抱き締めるしかなかった。

首から漂う血の匂い。

「痛い...?」

抱き締めたままユナに問いかけた。

ユナの顔が見れない...見るのが怖い。

顎の下をふるふると揺れる髪の毛。

「みんなの怪我に比べたら全然痛くないよ。」

この傷を上書きしたい。この血を全て飲み込んでしまいたい。

そんな激情を抑えるようにユナを手放した。

「先に戻ってて。」

心配そうなユナが僕を見上げる。

「ラウルをどうするつもりなの?」

僕はその瞳から逃げるように目を逸らした。

ユナを大切にしたいのに、傷付けてしまいそうな自分が怖かった。

「どうもしないよ。だから行って?」

出来るだけ柔らかく伝えようとしても上手くいかない。この心の棘が言葉に現れる。

「わかった...けど、必ず城に戻ってきてね?」

あまりにも当たり前のことを言うから強張ってた頬が緩んだ。

「もちろん。」

ユナが離れて行ったのを確認して、その場にへたり込む。

「ラウル、なんでこんな事をしたの?」

彼に対して怒りはある。だけど、報復したいとは思わない。

戻れるなら、あの頃の僕達に戻りたい。

「ソルトが変わっちゃったからだよ。村の人からは煙たがられて、タイショウから虐められて、リタを手放す原因も自分で作って。最後には村を出て行く原因も自分で作っちゃってさ。ハハハハッ本当あの頃のソルトは最高だった。俺はそんなソルトが好き。俺から言わせればこの島にいるお前はお前じゃない。俺はマジでガッカリしてんだよ?」

「じゃあラウルはまた僕のこんな顔が見れて満足?」

「ああお前との最後はこうでなくちゃな。」

「最後...?」

ラウルがバッと飛び掛かってきた。

濡れた草が頬を擽る。

ポツポツと顔に当たる冷たい雨。

霞んだ視界にラウルの身体が重くのしかかる。

「これは俺の最後の娯楽だ。俺はお前が居ないと生きていけない。だけどお前はもう戻って来ない。だからせめて、最後はあの頃のお前に、あの頃以上に不幸な顔で殺して欲しいんだ。俺を殺せ。ソルト。」

「ラウルが何を言いたいのかさっぱり分からないよ、だって君を殺す理由なんてない。」

「だから作ってあげたんじゃん?俺があの子に興味あるとでも思った?全部お前と俺の為なんだけど。」

「ユナは報復なんて望んでいない。それは僕も同じだよ。」

「マジで何も分かってないね。俺を殺さなけりゃ死ぬのはあの子だよ?」

ラウルは僕の掌をこじ開けた。そこに置かれたのは僕のナイフ。

「選べよ。」

ラウルは本当にユナを殺すんだろう。

もしユナまでも死んでしまったら...僕は迷わず僕を殺せる。

生きろと言った父の声はまだ覚えている。...こんな僕を生かす為に死んでいった父も愚かな人だった。

僕はもう誰にも死んでほしくない。もう誰も殺したくないよ...。

僕が居なければこの世界はもっと平和なのかな...

目を閉じたように暗い世界にぼんやり浮かぶラウルの顔。

「いいよ。凄くいい。お前はいつだって誰も届かない不幸の底で待っててくれる。そんなお前を見ると安心出来た。俺は不幸じゃないって思えた。だから勝手に幸せにならないでくれよ。俺を置いてかないでよ。」

僕の掌を包むように覆ったラウルの手。

それは冷え切っていた。

握らされているナイフの先がゆっくりラウルの心臓に向かっていく。

ラウルが何を求めているのかハッキリと伝わってくる。

それを拒否する自分と、彼を受け入れようとする自分、ユナを守ろうとする自分。

それも全部僕の感情だ。ノヴァの言っていたことは正しい。僕の意思はこんなにも揺れている。

自分が何をするのか自分でも分からないほどに。

すぅっとラウルの手が僕の手から離れた。

彼はとても意地悪だ...

冷たい雨に混ざって温かい水滴が顔に落ちてくる。

「俺は可哀想な子じゃない。俺は不幸じゃない。」

その言葉とは裏腹に、どんな時も涼しげに笑っていたラウルの顔が雨粒に歪んで見えた。

「嘘でも嬉しかった。ラウルが友達になってくれたことが。どんな理由でも嬉しかった。サルサ国でまた僕を受け入れてくれたことが。」

ラウルの腹に押し込まれていくナイフ。

煮えたぎるように熱い血液が僕の腹に落ちてくる。

柔らかな肉質はナイフを根元まで飲み込んだ。

「最後まで俺を見てくれよ...。」

「うん...見てるよ...。」

「最初は...仲間外れにされてる者同士仲良く出来ると本気で思ってた...けどいつの間にか俺よりもふたりのが幸せそうで...羨ましかった...許せなくなった...そんな自分がより惨めに見えた...幸せってどこにあんだろ...俺なんかは、こうでもしないと見つけられないって思ったけど...いざとなってみるとやっぱり分かんねぇわ...どんなに足掻いたって結局、可哀想なのは俺の方かよ...。」

ラウルの表情がふっと柔らかくなった。

「ソルト...さんきゅ。最後まで付き合ってくれて。お前はやっぱ友達だわ。見つかるといいな...お前も...」

僕よりも少し大きな身体が力無く覆い被さってきた。

刺さったままのナイフの鞘が僕の臍を圧迫する。

それは突き刺さっているように痛かった。

僕はそのまま目を閉じた。

重なった身体が冷えていくのを感じながら、目を瞑っていた。

ラウルとの思い出の数々を思い出さないように蓋をした。リタの事を考えないようにした。

もう全てを忘れたい。

僕が不幸なんじゃない...僕が不幸をばら撒いているんだ...。

ユナとの約束も忘れて、いつの間にか眠っていた。

「...とおう...ソルト王。」

薄く目を開けると、赤い瞳がふたつ並んでいた。

雨に打たれ続け冷え切った体は全く動かない。

ラウルの体はもっと冷たかった。

体を覆う圧迫感が今や心地良い。

もうこのまま...

僕は再び瞼を閉じた。

「ソルト王。しっかりしてください。」

シュガの声が僕の眠りを妨げる。

ラウルの重みが無くなった。

ハッと目を開けると、ラウルを抱え込んでいるシュガが見えた。

ラウルの体は木の枝みたいに不自然にピンと突っ張っている。

「この人は自分が片付けておきます。皆さんには上手く言っておきますのでご安心ください。」

「僕はもうこの島を離れようと思う。」

「...何処に行くおつもりですか?」

「父さんとの約束の場所に...」

【そして、みっつ...自分が分からなくなった時は、約束の場所に行ってごらん。あの場所に、僕と母さんの全てを残してあるから。】

「...なら自分もお供いたします。」

「え...」

「約束したじゃないですか。この戦いが終われば貴方に全てをお話しすると。」

「そういえば...そうだったね...。」

シュガの手が真っ暗な世界に伸びてきた。

それは鮮明に白くてどこか眩しかった。

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