第20話:「始動(Launch)」
再び訪れた地下二層の密林は湿気を孕み、空気は重く粘ついていた。
湿った石床に落ちる足音が、薄暗い空間に反響する。
トーカは六尺棒を杖代わりにし、慎重に前進する。
目の前の茂みから、人の形をした気配が立ち上がった。
「誰……?」
木々が揺れ、前方に巨体が現れる。
湿り気を帯びた密林の闇を押し分けて現れたそれは、ただの獣ではなかった。
全身を覆う漆黒の毛並み。
その上に羽織られていたのは、色褪せた道着。
かつて白かった布地は幾度もの戦いで土と血に染まり、今では灰褐色に近い。
袖口や裾はほつれ、黒帯は擦り切れて糸が解けていた。
だが帯はきちんと結ばれ、その所作からは規律と自律が漂っている。
さらに驚くことに、彼の頭上には光輪が浮かんでいた。
左腕は黒光りする金属義手。
右側頭から眼窩にかけては機械モジュールが食い込み、赤い光が瞬いている。
それでも、道着の襟を正す仕草ひとつで、この巨躯がただの獣ではなく「武人」であると知れた。
《討伐対象:MASTER-G。霊長目ヒト科ゴリラ属、世界最大の霊長類・グラウアーゴリラです。彼もまた光輪デバイスを通じて複数の格闘アーツを取得しています。》
ロジエルの声が響いた。
次の瞬間、低いバリトンが轟く。
「我ガ名ハ……オルテオ。 ソナタヲ強者トミコンデ頼ミガアル。 」
「――我ト、闘エ!」
どうやらロジエルを通して、彼の声は翻訳されているらしい。
「闘え……か。」
トーカは胸の鼓動が速くなるのを感じた。
巨大な肉体、圧倒的な強者のオーラ、そして武人としての敬意。
そのすべてが、彼女の内なる闘争心を呼び覚ます。
「ここで逃げたら……きっと今後も逃げ続けることになる。」
(それに――)
「オレもお前と闘いたい!!」
六尺棒を強く握り、構えを取る。
対峙したオルテオは笑った。
本来、笑いは獣にとって牙を剥く威嚇の表情である。
だが彼の笑みは、敬意と親しみを含んだ誇らしい笑顔だった。
トーカは全身のバネを使って突撃し、鋼鉄の六尺棒を鋭く突き出す。
アヤセとの訓練で研ぎ澄まされた一撃。
だがオルテオはそれを紙一重でかわしてみせた。
(軌道も、タイミングも、完全に読まれてる……?)
追撃の余裕はない。
トーカは仕切り直すためにバックステップで距離を取った。
オルテオはその判断に満足げに頷く。
オルテオは膝を落とし、鋼鉄の左腕を前に突き出し、右拳を腰に構えた。
空手特有の迎撃と反撃を兼ね備えた構え。
不用意に突っ込めば、捌かれ致命の反撃に遭うだろう。
両者の睨み合いが続く。
先に動いたのはオルテオだった。
右足の踵をスッと前に出す歪な構え。
好機と見たトーカは、突出した足へ片手持ちで杖の間合いを伸ばし打ち下ろす――
(え……?)
刹那、オルテオの巨体は空にあった。
270kgの体が宙を舞い、回転する。
空中で左足を軸に右足が弧を描く――
振り出した杖のガードは間に合わない。
トーカは咄嗟に左手でガードする。
ぐわん――と骨に響く衝撃。
オルテオの勢いは止まらず、旋回はさらに加速。
丸太のような蹴りが続けざまに襲いかかる。
肩からボクッと嫌な音が鳴り、鈍い痛みが全身に広がった。
トーカは吹き飛ばされる。
いや、ダメージを逃がすため自ら後方へ飛んだ。
気絶しかけたが、左腕からの激痛が意識を引き戻した。
すぐさま下半身で跳ね上がって飛び起き、杖を両手に構える。
だが左腕は力が入らず、ぶら下がったまま動かない。
肩は脱臼し、前腕は骨折していた。
それでも気圧されぬよう、トーカはオルテオを睨み返した。
「ソノ気迫、ヨシ!」
オルテオはすぐに間合いを詰めず、彼女の様子を窺う。
(あの時の密林での二人の戦い……)
トーカは脳裏で、力で劣るシヴが罠や環境を駆使し、ツナギと互角に渡り合った光景を思い出していた。
(私が学ぶべきは……)
「使えるものは、なんでも使う……!」
杖を地に突き立て、腰のポーチからフラッシュライトを取り出すと、オルテオの目に向けて点滅させた。
オルテオは堪らず顔を歪め、左目を覆う。
「ここだ!」
トーカはそのまま殴りかかる。
「甘イゾ!」
オルテオの右目のセンサーが赤く光り、ライトを片手で打ち落とした。
(見えてるの?!)
《MASTER-Gの右目は赤外線感知が可能です。潜伏や目くらましは無意味です。》
「チッ!」
舌打ちするトーカに、オルテオは愉快そうに笑う。
「フフ……悪クナイ手ダッタ。ソレデコソ本当ノ戦闘者ダ!」
敵の戦いに工夫を凝らす姿勢に、彼は歓喜する。
相手を倒すために手段を択ばない姿勢にこそ、真実の果し合いを見出しているようだった。
トーカは痛む肩を押さえつつ、呼吸を整える。
じわじわと額から粘る汗が染みだす。
痛みとどうしようもない寒気に襲われ、身体は小刻みに震えていた。
――オルテオは、自らの肉体と技を信じ切っている。
幾度もの修練で築き上げた膂力と技術を、誇り高き道着と共に纏い、真正面から叩き潰すことに迷いはない。
だからこそ搦手を用いず、あらゆる相手を真正面から打ち倒してきた。
それが、彼にとっての最善手だった。
――対してトーカは、まだ未熟だ。
二人の間には決して覆らない実力差がある。
だが未熟であるからこそ、敗北から学ぶ。
敵味方問わず、あらゆる型から盗み、どんな卑怯な手でも飲み込む。
その貪欲な勝利への執着が、今の自分の「武器」だ。
二人の対照的な思想がぶつかり合う。
一陣の風が木々の合間を吹き鳴らした。
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