記憶に触れる
あの口喧嘩が脳裏から離れない。そよ風が薄ら寒く感じて、僕は身震いする。カクレメさんのあの警告は何だったのだろう。彼は、あの店の事情を知っているのか?
「カクレメさん、あの……」
「これが壁だよ」
バッサリと遮断される。僕は停止するより先にカクレメさんに衝突した。「痛っ」と口走るが、彼は宙を見上げたまま立ち尽くしている。箱庭を箱庭足らしめる存在、そびえ立つレンガの壁だった。彼は壁を何度かノックして、溜め息をつく。
「この地が誕生し、それと同時に箱庭が生まれたのは、わりと最近の出来事。最初は共通点のある仲間と交流するためのグループ、つまり単なる一つのコミュニティだった」
郷愁に胸を締め付けられるように、カクレメさんの表情が苦く、けれども温度を孕んで歪んだ。
「それが、いつからか変わった。グループがこの箱庭のような大規模へと変化するに連れ、対立が発生した。争うのは仲間同士であったり、別のグループからの刺客であったり。どこにも属さず、グループを無差別に襲撃する者だっている」
カクレメさんの視線は、僕の想像するより遥か彼方を見据えているようだった。僕らのいる箱庭が、段々と陰に蝕まれる。あの時の月と太陽のキメラが浮いていて、なのに何故日陰ができたかはわからない。
「……飛躍するための憩いの場が、四半世紀も経たない内に他者を殺す場になった」
そう言うと、カクレメさんは口パクで何かを伝えてきた。すぼんだ口と、半開きの口の組み合わせ。ウ段とエ段。「うえ」?
壁の上で、何やら黒い霧が揺らいでいた。まじまじと見つめていると、それは段々と分裂して、やがて人型が形成されていく。
「ひい……っ」
人影の数の多さに、僕は悲鳴を上げる。黒子を連想させるような漆黒の身体たちが、こぞって僕らを見下ろしていた。例え彼らと至近距離で対面したとしても、誰が誰か分別できないだろう。
「宙都は女性を探していると話していたね」
淡々と呟くカクレメさんに、僕は「はい」と裏返った声で返事する。
「その人に会って、どうしたいの?」
何気ないであろう質問が、僕の柔い部分へ鋭利に刺さった。感情が混濁して、僕はゆっくりと後退する。僕は、たった一度しか出会っていない女性に執着している。その理由が自分でもわからない。ただ、今は彼女の正体を突き止めたいと強く思う。下心などなく、単純な興味として。
カクレメさんは気が変わったのか「さっきの問いはなかったことにしよう」と発言を取り消した。
「あと一カ所見たら、案内は終了するよ」
カクレメさんに案内された場所には、木製の倉庫が転々と並んでいた。その中の一棟の前で止まり、彼はポケットから鍵を取り出す。
「ここはカクレメさんの所有する倉庫ですか?」
沈黙。どうやら、無視されたようだ。鍵穴に挿し込んで捻ると、小気味よい音が聞こえた。カクレメさんは両開きのドアを手前に引く。
「段差あるから気をつけて」
中は奥に広く、壁側には棚や段ボールがところ狭しと詰まっている。生活用品やアウトドア用品よりは、やけにファイルが多い。床に散乱した白紙に、何故か懐かしさを覚える。
「おっと!」
通路にはみ出た何かが腕に衝突して、思わず声を上げる。振り返ると、それは焦げ茶色のギターケースだった。埃はそこまで被っていないから、直近まで使用されていたのだろうか。
「これは宙都にあげる」
先導していたカクレメさんが、突然正方形を投げてきた。反射的に、ぱしっと掴む。透明なケースに円盤が入っていた。裏返すと、窓からの少量の日光で円盤が虹色に光る。
「CD、ですか」
「出会ったときに聴いていた曲。覚えている?」
僕は頷く。元の記憶が曖昧でも、先程耳にしたこの曲だけは忘れるわけがなかった。
「三番。あれの音源が入っている」
CDを瞳に近づけると、手書きの小さな文字で曲名が書かれている。あの曲は「きみも杓子も」というらしい。
ふと、曲名が連なった一番下に、アーティストの名前が記されているのを発見する。
「ら……るり」
「そう。
そのアーティスト名を知った途端、糸が緊張して張り詰めたように、僕の思考回路が一直線に伸びる。冴えた快感の末に、欠損していた記憶が少しだけ蘇っていく。
「
無意識に紡いだその名前に、得も言われぬ郷愁が僕を襲う。あの時聴いた「きみも杓子も」が脳内で再生されている。
「それは誰?」
「誰って、丹羽瑠璃は、その」
言葉が詰まる。一部の記憶が抜け落ちているのだから、説明のしようがない。ただ、僕の推理が正解ならば、丹羽瑠璃はあの女性で――。
その時だった。外で、地割れが起きたかのような爆発音が轟く。それは二発、三発と続けざまに鼓膜を劈いた。
「はえっ、何!?」
僕は情けない悲鳴を発するが、カクレメさんは「宙都。避難するよ」と至って冷静な声色で指示する。棚の荷物越しに窓の外を覗くと、壁付近の地が轟々と燃え盛る炎に呑まれていた。
壁そのものには燃え移っていないようだったが、のどかな草木は橙色に染まって姿を消していく。
僕は咄嗟に倉庫を出る――より先に、段ボールを下ろし始めた。
「何しているの。ここは比較的、壁に近い。危険だよ」
カクレメさんから冷酷な視線が向けられているのが、手に取るようにわかる。それでも逃げなかった。ファイルも片っ端から回収して、空っぽの段ボールにしまう。
「ここはLaruliさんの所有する倉庫ですよね? ……楽譜がまだ残っています」
「命の方が大事」
つま先から首上まで鳥肌が立ち昇る。それすらを無視して、散らばった楽譜を腕で束ねていく。あの、白紙で山積みの床を見たとき、それが僕の仕事だと確信したから。
一目散に物置を整理していると、背後で荒い呼吸音が聞こえた。次の瞬間。
「命の方が大事に決まってる!」
堰を切ったような叫び声で、カクレメさんが一喝する。ぎょっとして振り向くと、彼は切羽詰まったような険しい形相を露わにしていて、今にも胸ぐらを掴んで押し倒されそうな勢いだ。……首を横に振るなんて、流石にできなかった。僕は一瞬だけ躊躇したが、すぐに段ボールを跨いで、倉庫を後にした。
「ここらで一安心できそう」
僕らはひとまず火元から離れ、木陰に身を潜めている。遠方からの焦げた臭いが鼻を突く。
「箱庭の外の人々なら、壁を越えることも容易そうですが」
「それはない。可能と実行は違う」
避難する最中に、カクレメさんが教えてくれた。あの火炎は外部から投下されたこと。外部とは、あの漆黒の人影たちがいるところの名称で、カクレメさんが箱庭の説明をした際に登場した「グループを無差別に襲撃する者」であることも。壁から投下された炎は、箱庭を囲む第二の壁のように火花が上がっている。
「……僕とLaruliさんは、多分、知り合いです。詳細は思い出せなくて悲しいですが」
こんな状況で弱音を吐くみたいで情けないが、カクレメさんに心境を吐露する。彼は無言で僕とアイコンタクトを取る。「続けて」と言っていそうだった。
「僕が海辺で出会った女性も彼女です」
右手に視線を落とす。明確に手を払った記憶は持ち合わせていないが、これまでの箱庭巡りで取れていったのかもしれない。褐色の粘土は、もうなかった。
「カクレメさんは、倉庫の鍵を所持していましたね。仮にあれがスペアキーだとしても、カクレメさんはLaruliさんと倉庫を共有していたことに変わりはないです」
カクレメさんの見えない双眸に、大体この位置だろうと視線を合わせる。彼は相変わらず無言でこちらの様子をうかがっていた。
「カクレメさんとLaruliさんはどのような関係性でしょうか」
僕の疑問を凝縮してできた質問は、思ったよりも単純明快になった。心の底からの、箱庭とカクレメさんに迫る問いかけ。それに対して、カクレメは首を左右に振った。
「答えられない」
「カクレメさんはそういう人なんですね」
「じゃあ答えよう」
煽ったら、彼はすぐさまフードを下ろした。想像の倍以上はチョロい。
カクレメさんは遂に素顔を晒す。見知った人物だった。明るすぎない茶髪の癖毛にツリ目。僕は冷や汗を垂らしながらも、一周回って「なるほど」と納得してしまった。
「ボクは僕だ」
目の前のカクレメさんは、洗面台の鏡に映ったように僕と瓜二つだった。僕が僕自身を認識したからか、過去の想い出が鮮明に復活する。
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