箱庭の僕ら

 次に気が付いたのは、木陰だった。僕は樹木に背中を預けるような姿勢で座っていた。寝起きにしては頭が冴えていて、右手には褐色に変化した粘土がこびり付いている。あれは現実だったのか? だとしたら、ここもどこだ。

 立ち上がり、背を伸ばす。どうやらこの辺り一帯は草原らしく、新緑がなびいている。雑草は足首下の高さで統一されているから、誰かが手入れしているのだろうか。その一部が枯れてしまっているのがもったいない。地面には何十個ものスポイトが転がっていて、僕はそれを避けながら周囲を探索することにした。

 木陰から少し離れにあった丘に登る。見下ろすと、それはまさに絶景だった。豊かな草木が延々と広がっていて、中心部には樹齢千年はゆうに超えそうな大樹が根を張っている。その奥には巨大な湖が見えた。幾らかの小屋や倉庫? や丸太の橋以外に人工の建築物は見当たらない。と思っていたら、随分と奥にあった。この自然を囲むようにそびえ立つ、レンガ製の壁だ。それは丘よりも遥か高く、何故しばらく気付かなかったのか、自分に疑問を呈する。

「ここは箱庭みたいな場所だ」

 僕の独り言を肯定するように、そよ風が頬を撫でる。同時に、遠方から音が聴こえてきた。僕は微かに聴こえる曲に惹かれ、音源の方へ歩き出す。途中からは徒歩移動の時間が無駄に感じ、軽く走ることにした。ああ、この曲、好きだ。直球にそう感じる。

 アップテンポで、エレキギターやベースが目立ち、ごちゃごちゃしている。なのに、心地良さが先行する。

『どれだけ物が散乱した部屋でも、整理整頓すれば綺麗になります。一方で、その部屋自体に芸術性を見出す人もいます。整頓された音を紡ぐのも、入れたい音を詰めるのも、私にとってはどちらも音楽なんです』

 テレビのアーティスト特集で、女性シンガーがそう語っていたのを思い出す。この曲は、まるで後者を具現化したようだ。汚部屋に住む人の気持ちが一切解せなかったが、今日だけは許せてしまいそうだ。

 鼻歌混じりに曲を鑑賞していると、突然、背後の気配を察知する。一気に空気が冷える。僕はその場で硬直した。この箱庭に来てから数分、人間どころか生物にすら会っていない。この気配は何だろう。

 もしかしたら、化け物がずっと後をつけていて、断末魔を叫ぶ間もなく殺されるかもしれない。確証のない無理やりな結論を出したところで、人間の本能は制御できない。僕は意を決し、気配の方を睨む。

「こんにちは」

 機械混じりの声で挨拶したのは、フード付きマントを羽織った人だ。顔はフードと前髪で、手足はマントで隠されていて、上手く見えない。多分、身長は僕と同じくらいか。僕は一歩後退り、口を開く。

「どちら様ですか」

「誰だろうね」

 やはり、加工ボイスで即答された。どこかにボイスチェンジャーを仕込んでいるのだろうか。ここで会話は終了してしまい、沈黙が続く。……そして突然、彼は静寂を切り裂くように言い放った。

石津宙都いしづそらと

 突然、名前を呼ばれて横転しそうになったが、間際で耐える。目線の泳ぐ僕をよそに、彼(彼女?)のフードから右手が現れ、僕を指差す。ゴツゴツとした指とそのサイズからして、彼は男性だ。

「ボクのことは自由に呼んで」

 自由にと命令されても、それはそれで混乱してしまう。本名が謎ならば、特徴から名付けるしかない。僕は彼の外見とにらめっこしながら、ぴんと閃きの回路が完成する。

「フードで目元が隠れているから『カクレメ』さん」

 カクレメさんは無言で踵を返す。僕にしては最高のネーミングだと思ったのに、お気に召さなかったらしい。僕のポジティブが凹んだのを悟ってか、カクレメさんは手招きをする。

「自由に呼んで、と言ったのはボクだから気にしないで。……宙都はここに来るの、始めてだよね。ボクは箱庭の者。箱庭を案内してあげる」

 遠回しにその名前は気に入らないと言われた。七味唐辛子を直に舐めたような痛みを心に受けながら、行く先もないのでカクレメさんの後を追う。転がっていたスポイトを踏み潰すと、緑色の液体が小さな池を生成した。そこら中に散らばるこれは、活力剤だろうか。こんなにも美しい自然に「もっと絶景になれ」とプレッシャーを強いる悪趣味な人がいるのか。

 さああああ、と駆け抜ける草木の匂いは、折り返し地点を知らず、どこまでも流れていく。永遠に。そう考えてしまった途端、僕は自然音に恐怖を覚え、あの、と切り出していた。

 カクレメさんが歩みを止めずに「何だ」と訊く。僕もわかりません、とは言えない。せっかくだから、今後尋ねるには躊躇いが生じそうな質問をぶつけてみる。

「黒髪の腰まで届くロングヘアー、ぱっちりとした目、体型は標準より細め。ウサギ型のヘアピン。この辺りの特徴に当てはまる女性ってご存知ないですか?」

 カクレメさんは右足に左足を添えるように立ち止まり、三秒停止する。彼は意地でもこちらを振り返らない。

「宙都の性癖?」

 その発想に至るカクレメさんもカクレメさんだ。僕は首を横に振り、彼を精一杯睨んでやった。快晴の暑さに、僕の顔の輪郭を伝って汗が落ちる。

「違います。僕は人を探しているだけです」

「そっか」

 それから、また訪れる沈黙。さらっと質問を放棄された。着いてこいと言った際、直前に「箱庭の者」と自称した理由も問いただそうと思っていたが、今の空気では駄目そうだ。

 彼も彼女も何者なのか、真相に辿り着けない僕を、すれ違った枯れ木が見下す。その幹には焼け焦げたような跡が刻まれていた。




 しばし歩いて、着いたよ、とカクレメさんは言う。僕を出迎えたのは、丘の上で見た、箱庭のちょうど中心部に位置する大樹だった。その奥には巨大な湖が広がり、目を凝らすとそこには桟橋が架かっていた。

 大樹のしなる枝は僕を丸呑みしてしまいそうで、背筋が震え立つ。耳を澄ますと、この大樹にもスピーカーが仕込まれているのだろうか。頭上からは僕が追っていた曲と別の曲が聞こえる。

 この曲はピコピコとした電子音が目立つキュートな曲調だった。大人気アイドルグループが歌唱していそうなそれを、ダウナーに歌い上げるソロシンガーのギャップに惚れ惚れする。それでも、僕は最初に聞こえた曲の方が断然好きだった。

 僕が聞き惚れている内にカクレメさんは消えていて、彼は湖の方向からA4サイズの紙を手にして帰ってきた。彼は何も言わずにそれを手渡す。走り書きのようで解読が困難な部分もあったが、五線譜に音符が並んでいるのは何となく理解した。

「楽譜?」

「そう。湖付近にはこんなものも落ちている」

 もう一枚渡される。それはミミズが這うように走り書きされた、難解な暗号のように思われた。が、音読してみると、どうやら詩のようだ。先程の楽譜とセットで、これらを組み合わせると一つ曲が誕生するのかもしれない。

「この詩、かなり好きです」

「ボクも。それを持ったまま、移動しよう」

 カクレメさんに言われるがまま着いていく。湖に沿って歩を進めながら、僕は楽譜と詩を何度も何度も読み返した。作詞作曲者はどなただろうか。こんな状況ではあるけれど、一度お会いしてみたい。そうやって考え事を繰り返していたからか、ふっと楽譜が指をすり抜け、滑り落ちていく。

 僕は慌てて拾い、視線を上げると、湖のほとりに外装の綺麗な小屋を発見する。僕はカクレメと小屋を繰り返し見たが、興味を制御できずに後者の方へ近づく。

 彼はそんな僕を見透かすように、もしくは背後に第三の眼が隠れているかのように言った。

「そこは稀に現れる飲食店。近寄らない方が安全だよ。……近頃の出現頻度は異常だし」

 カクレメさんは立ち止まらず、振り返りもしない。それでも僕の気持ちを汲んだのか、その場で停止した。僕のために時間を割いてくれるらしい。

 窓から覗き見ると、小さな店内は満席で大繁盛していた。テーブルにはパスタやステーキセット、マルゲリータなどの料理が置かれており、ここはファミレスなのだと察した。

 すると、鈍い音と共に店が揺れ、僕のいる外まで響く。店の全体を見回すと、男性がテーブルに拳を打ち付けていて、声を荒げていた。

「俺はこんなの気に入らん。不味い不味い不味い、不味いったらありゃしねえ!」

 テーブルに置かれたフィッシュアンドチップスが揺れる。男性の怒りが器から溢れるように、カトラリーが床に叩きつけられ、妙に不愉快な金属音が店外にまで響く。

「お客様、落ち着いてください」

 店員さんらしき人物が男性を宥めに介入しようと試みるが、それを妨害するように、店内から拍手が聞こえてきた。何事かと思えば、食事中だった女性がいきなりスタンディングオベーションをしていた。

 その女性の微笑みは不気味で、瞳に光が灯っていない。その悍ましさを自分なりに表現するならば、「自身にとって都合の良い神様を崇めている」みたいだった。

「この男に賛成するわ。私もずっと思っていたのよ、なんて酷い料理を提供するのかしら、って」

「文句があるなら、さっさと店から出ていってくださいよ。それでもここに入り浸るなら、自ら馬鹿を露出しているだけですよ」

「まあまあ。自分は美味しいと思うけどね、他人から見たらちょっとなー? ってなるかもねー」

「それに比べて、あの店はいいよ。味も申し分ないし、接客対応も……」

「どいつもこいつも黙れ! 俺はお前らのために飯を作ってやってんだ。お前らが俺に意見する資格はない!」

「意見と悪口は違う。これはお前のためを思った前者だ。これ如きで客を出禁処分にするなら、お前はシェフをやめろ」

「あーあ。これでギャーギャー騒ぐ奴ら全員ゴミ」

 会話が成立しているようで、結局は主張の押し売りになっている地獄。罵声は決して僕へ向けたものではないのに、その圧力は骨を一本一本と確実にへし折るような、まさしく鬱だった。

「ボクは近寄らない方が正解だと言った」

 カクレメさんが耳元で喋る。それでも店内の様子が気になったが、これ以上は僕にとって毒だと思い直し、カクレメさんを追いかけた。

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