第5話 偽りの姫の孤独

尾張の空は、

穏やかな光に満ちていた。

吉法師の改革は、

着実に実を結び、

城下には、

以前にも増して、

活気が戻っていた。

領民たちの顔には、

笑顔が溢れ、

彼らの声は、

希望に満ちていた。

濃姫は、

その光景を、

吉法師の隣で、

静かに見つめていた。

彼女の心には、

満たされた感情が、

じんわりと、

広がっていくのを感じた。


吉法師との関係は、

日を追うごとに、

深まっていた。

かつては、

政略結婚の道具として、

冷徹な契約を結んだ二人。

しかし、

今では、

互いを信頼し、

支え合う、

真の夫婦へと、

その絆を深めていた。

夜の作戦会議は、

いつしか、

互いの過去を語り合う時間へと、

変わっていった。

暖炉の火が、

パチパチと音を立てる部屋で、

二人は、

静かに言葉を交わす。

吉法師は、

多くを語らない男だったが、

濃姫の前では、

少しずつ、

その心の奥底を、

見せるようになっていた。

彼の言葉は、

いつも、

短く、

そして、

的確だったが、

その中に、

濃姫への、

深い信頼と、

温かさが、

込められているのを感じた。


濃姫もまた、

吉法師の前では、

これまで誰にも見せなかった、

自身の弱さや、

心の傷を、

少しずつ、

明かすようになっていた。

父の死の悲しみ。

家を守る重圧。

そして、

「偽りの姫」としての、

孤独。

それらを語るたびに、

吉法師は、

静かに、

しかし、

真剣に、

耳を傾けてくれた。

彼の存在が、

濃姫の心を、

深く、

深く、

癒やしていく。

それは、

まるで、

凍てついた大地に、

春の陽光が差し込み、

ゆっくりと、

雪を溶かしていくような、

穏やかな感覚だった。

二人の間に流れる時間は、

濃姫にとって、

かけがえのないものとなっていた。

この穏やかな日常が、

永遠に続けばいいのに。

そんな思いが、

彼女の心に、

芽生え始めていた。


しかし、

その穏やかな日常の中に、

濃姫の心に、

微かな「違和感」が、

生じ始めた。

改革が成功し、

尾張が安定を取り戻した今、

吉法師は、

「契約」を果たし、

美濃へと帰ってしまうのではないか。

そんな不安が、

まるで、

冷たい水のように、

彼女の心の奥底に、

じわりじわりと、

染み渡っていく。

吉法師の存在が、

濃姫にとって、

どれほど大きなものになっていたか、

彼女自身が、

改めて痛感していた。

彼の存在が失われることへの恐怖が、

濃姫の心を、

深く、

深く、

蝕んでいく。

それは、

これまで経験したことのない、

強烈な不安だった。


夜、

吉法師が、

作戦会議のために、

部屋を訪れるのを待つ間、

濃姫の心は、

激しく揺れ動いていた。

手のひらは、

汗でじっとりと濡れ、

心臓は、

ドクン、

ドクンと、

大きく鳴り響いている。

まるで、

嵐の前の静けさのように、

彼女の心は、

張り詰めていた。

吉法師が部屋に入ってきても、

濃姫は、

なかなか、

その不安を、

口にすることができなかった。

言葉にすれば、

それが現実になってしまうような気がして、

恐ろしかったのだ。

しかし、

その不安は、

彼女の心の中で、

ゆっくりと、

しかし、

確実に、

「感情の膨張」を引き起こしていた。

息苦しさを感じ、

胸の奥が、

締め付けられるようだった。


吉法師は、

濃姫の異変に、

すぐに気づいたようだった。

彼は、

静かに、

濃姫の顔を見つめる。

その瞳には、

いつもの知的な光に加え、

濃姫を気遣うような、

優しい色が宿っていた。

その視線に、

濃姫の心は、

さらに揺らぐ。

このまま、

彼が去ってしまったら、

自分は、

また一人になってしまう。

そんな絶望感が、

彼女の心を、

深く、

深く、

覆い尽くしていく。

彼女の瞳には、

涙が、

にじみ始めていた。

それは、

誰にも見せることのない、

密かな涙だった。


「…私だけが、取り残されたようです」


濃姫は、

絞り出すように、

そう吐露した。

その声は、

自分でも驚くほど、

震えていた。

言葉にした瞬間、

これまで抑え込んできた、

孤独と不安が、

一気に、

彼女の心から、

溢れ出した。

吉法師は、

濃姫の言葉に、

何も言わなかった。

ただ、

静かに、

彼女の顔を見つめている。

その沈黙が、

濃姫の心を、

温かく包み込んだ。

そして、

彼は、

ゆっくりと、

口を開いた。


「…俺もまた、道三殿の道具として生きてきた」


吉法師の声は、

静かでありながら、

深い響きを持っていた。

その言葉に、

濃姫は、

はっと顔を上げた。

彼の瞳の奥には、

濃姫と同じような、

深い孤独が、

宿っているように見えた。

彼は、

道三の息子として、

その才覚を、

早くから見抜かれ、

「うつけ」の仮面を被り、

誰にも本心を見せることなく、

生きてきたのだ。

その孤独は、

濃姫が抱える孤独と、

深く共鳴した。

二人の孤独が、

まるで、

合わせ鏡のように、

互いの心を映し出す。

その瞬間、

二人の間に、

言葉以上の、

深い共感が生まれた。

それは、

彼らの愛が「萌芽」するための、

確かな「助走」だった。


吉法師は、

濃姫の傍らに、

そっと座り直した。

そして、

濃姫の手を、

優しく握り締める。

その手は、

温かく、

そして、

力強かった。

濃姫の心に、

温かいものが、

じんわりと、

広がっていくのを感じた。

彼の存在が、

どれほど自分にとって、

大きな支えになっているか、

改めて痛感した。

吉法師は、

濃姫の瞳を、

まっすぐに見つめた。

その視線には、

濃姫への、

深い愛情と、

そして、

揺るぎない決意が、

宿っていた。


「お前は、偽りの姫なんかじゃない」


吉法師の声は、

静かでありながら、

確かな響きを持っていた。

その言葉が、

濃姫の長年の苦しみを、

深く、

深く、

癒やしていく。

「偽りの姫」として、

生きてきた濃姫にとって、

その言葉は、

何よりも、

心に響くものだった。

彼女は、

吉法師の言葉に、

涙が止まらなかった。

それは、

悲しみの涙ではなく、

安堵と、

そして、

深い喜びの涙だった。

吉法師は、

濃姫を優しく抱き寄せた。

彼の腕の中で、

濃姫は、

初めて、

心から、

安らぎを感じた。


部屋の中は、

暖炉の火が、

パチパチと音を立てるだけの、

穏やかな空気に満ちていた。

二人の影が、

壁に長く伸びる。

その夜の空気は、

温かく、

そして、

確かな愛が、

芽生えたことを示していた。

濃姫の心は、

希望に満ちていた。

この男と、

共に歩むならば、

きっと、

どんな困難も、

乗り越えられる。

そして、

この乱世に、

新たな光を、

もたらせるだろう。

彼女の心には、

これまで感じたことのない、

満たされた感情が、

ゆっくりと、

膨らんでいくのを感じた。

それは、

彼女の人生における、

新たな始まりだった。

二人の愛が、

静かに、

しかし、

確実に、

「萌芽」した瞬間だった。

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