第2話 うつけの婿殿

婚礼の日。

清洲城は、

朝から、

張り詰めた空気に包まれていた。

祝宴の準備が進む一方で、

城の奥深くでは、

不穏な囁きが、

まるで、

冷たい風のように、

静かに吹き荒れていた。

濃姫の部屋には、

朝から、

侍女たちが忙しなく出入りし、

婚礼の支度を進めていた。

鮮やかな打掛が、

部屋の隅に広げられ、

その豪華さが、

今の濃姫の心とは、

あまりにもかけ離れているように思えた。


「姫様、まもなくお時間でございます」


侍女の声が、

遠くから聞こえるように響いた。

濃姫は、

鏡に映る自分の顔を、

じっと見つめていた。

白塗りの顔は、

感情を映さず、

まるで、

能面のようだった。

瞳の奥には、

昨日流した涙の痕が、

かすかに残っているような気がした。

しかし、

もう、

立ち止まっている暇はない。

彼女は、

武家の姫として、

この婚礼を、

全うしなければならない。

それが、

尾張と民を守るための、

唯一の道なのだから。


城の広間へと向かう廊下は、

家臣たちの好奇と、

そして、

侮蔑の視線で満ちていた。

彼らの視線が、

まるで、

針のように、

濃姫の肌を刺す。

「美濃の蝮の娘が、

うつけの嫁になるのか」

そんな囁きが、

耳の奥で、

こだまのように響いた。

濃姫は、

その一つ一つを、

心の奥底に沈め、

決して、

表情に出さなかった。

ただ、

前だけを見つめ、

一歩、

また一歩と、

進んでいく。

その足取りは、

重く、

しかし、

揺るぎないものだった。


そして、

対面の広間。

そこに、

吉法師はいた。

濃姫は、

息を呑んだ。

彼の姿は、

噂に違わぬ「うつけ」そのものだった。

泥だらけの着物に、

乱れた髪。

その顔には、

どこかぼんやりとした表情が浮かび、

口元には、

微かな笑みが浮かんでいる。

しかし、

その笑みは、

どこか空虚で、

感情がこもっていないように見えた。

彼の周りには、

異様な雰囲気が漂っていた。

それは、

単なる身なりや態度から来るものではない。

濃姫は、

彼の瞳の奥に、

一瞬、

凍てつくような、

鋭い光が宿っているのを、

見逃さなかった。

その光は、

彼の「うつけ」ぶりとは、

あまりにもかけ離れており、

濃姫の心に、

強い「違和感」を呼び起こした。

この男は、

本当に「うつけ」なのだろうか?

その疑念が、

彼女の心に、

深く、

深く、

根を下ろした。


初夜の対峙は、

濃姫にとって、

想像以上に、

奇妙なものだった。

部屋の中は、

静寂に包まれ、

二人の息遣いだけが、

かすかに響く。

吉法師は、

床に座り込み、

濃姫から視線を逸らしたまま、

一言も発しない。

その沈黙が、

濃姫の心を、

じりじりと焦らせた。

彼女は、

彼の真意を探ろうと、

言葉を投げかけるが、

返ってくるのは、

感情のない、

短い返答ばかりだった。


「…何か、お望みはございますか」


濃姫は、

絞り出すように尋ねた。

その声は、

自分でも驚くほど、

震えていた。

吉法師は、

ゆっくりと顔を上げた。

その瞳は、

やはり、

どこか遠くを見つめているようだったが、

その奥には、

やはり、

あの鋭い光が、

かすかに揺らめいていた。

それは、

まるで、

深い闇の中に、

一筋の光が差し込むような、

矛盾した輝きだった。

彼の言葉の少なさ、

感情のない声、

そして、

その瞳の奥に見える鋭い光。

これらの要素が、

濃姫の心に、

大きな「感情の膨張」を引き起こした。

彼の「うつけ」は、

本当に、

本物なのだろうか?

それとも、

何かを隠しているのだろうか?

彼女の頭の中では、

様々な思考が、

渦を巻いていた。

この男は、

一体、

何を考えているのだろう。

その疑問が、

濃姫の心を、

強く、

強く、

掴んで離さなかった。


夜が更け、

吉法師は、

静かに部屋を出て行った。

濃姫は、

彼の背中を見送りながら、

彼の真意を探るべく、

密かに後を追うことを決意した。

それは、

彼女の直感が、

強く、

そう告げていたからだ。

彼の「うつけ」が、

偽りであるならば、

その裏には、

必ず、

何か、

隠された目的があるはずだ。

濃姫は、

音を立てないよう、

慎重に、

彼の後を追った。

廊下は、

闇に包まれ、

遠くから、

夜番の足音が、

かすかに聞こえるだけだった。

彼女の心臓は、

ドクン、

ドクンと、

大きく鳴り響いていた。

それは、

緊張と、

そして、

未知への期待が入り混じった、

複雑な鼓動だった。


吉法師は、

城の奥深くへと進んでいく。

濃姫は、

その姿を見失わないよう、

細心の注意を払った。

やがて、

廊下の先に、

かすかな光が漏れている部屋を見つけた。

濃姫は、

息を潜め、

そっと、

その部屋の扉に近づいた。

扉の隙間から、

中を覗き込むと、

濃姫は、

息を呑んだ。

そこにいたのは、

先ほどの「うつけ」の吉法師ではなかった。

真剣な顔で、

尾張の地図と、

分厚い帳簿を広げ、

熱心に読んでいる吉法師の姿があった。

彼の表情は、

鋭く、

そして、

知性に満ち溢れていた。

その瞳の奥には、

先ほど濃姫が見た、

あの鋭い光が、

はっきりと宿っていた。


濃姫の心に、

衝撃が走った。

彼の「うつけ」は、

すべてを欺くための、

偽りだったのだ。

この瞬間、

濃姫の心の中で、

これまで抱いていた吉法師への認識が、

ガラガラと音を立てて崩れ去った。

同時に、

新たな「価値観の発動」が、

彼女の心に芽生えた。

この男は、

ただの「うつけ」ではない。

彼は、

何か、

大きな目的のために、

自らを偽っているのだ。

その目的が、

何であれ、

この男は、

尾張を救う力を持っているかもしれない。

濃姫の心は、

激しく揺れ動いた。

不信感と、

そして、

一筋の希望が、

複雑に絡み合っていた。


彼の正体を知った濃姫の心には、

不信感と同時に、

一筋の希望が、

確かに芽生えていた。

「この男と手を組めば、

尾張を救えるかもしれない」

その思いが、

彼女の心を、

強く、

強く、

揺さぶった。

これまで、

一人で抱え込んできた重圧が、

少しだけ、

軽くなったような気がした。

彼の「うつけ」が偽りであると確信した今、

濃姫の心の中では、

新たな可能性が、

ゆっくりと、

しかし、

確実に、

広がっていた。

それは、

彼女の未来を大きく左右する、

心理の揺れだった。

この男は、

敵ではない。

もしかしたら、

味方になるかもしれない。

いや、

味方にするべきだ。

その思考が、

濃姫の心の中で、

明確な形を成していく。

この発見が、

濃姫の「助走」となり、

彼女を、

新たな行動へと、

駆り立てるだろう。

彼女の心は、

この夜、

大きく、

そして、

決定的に、

動き始めたのだ。

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