織田家異文禄 濃姫恋物語 ~偽りの姫の盟約は、天下布武の愛へと変わる~
五平
第1話 尾張の窮状と盟約
父上の急逝は、
尾張の空に暗い影を落とした。
それは、まるで、
巨大な岩が、
音もなく、
深い谷底へと転がり落ちるような、
静かで、
しかし、
決定的な出来事だった。
城内は、
悲しみに沈む間もなく、
混乱と、
そして、
不穏な空気に包まれていた。
家臣たちは、
まるで、
羅針盤を失った船のように、
それぞれの思惑で動き出し、
織田家は、
内部から崩壊の危機に瀕していた。
評定の場は、
いつも重苦しい空気に満ちていたが、
この日は、
特に、
その重さが、
濃姫の肩に、
ずしりと圧し掛かった。
男尊女卑の風潮が、
この時代には、
根深く蔓延しており、
女である濃姫が、
この場にいること自体が、
一部の家臣にとっては、
不愉快なことだったのだろう。
彼らの視線は、
まるで、
鋭い刃物のように、
濃姫の肌を刺した。
嘲笑と侮蔑の色を帯びたその眼差しは、
彼女の心を、
深く、
深く、
抉り取っていく。
濃姫は、
その屈辱を、
必死に耐え忍んだ。
手のひらは、
汗でじっとりと濡れ、
指先は、
小刻みに震えている。
冷たい汗が、
背筋を伝い、
肌着に張り付く不快感が、
彼女の精神を、
さらに追い詰める。
しかし、
彼女は、
決して、
その表情を崩さなかった。
毅然とした態度を保ち、
威厳を保とうと努める。
それは、
武家の姫としての、
そして、
父の娘としての、
最後の矜持だった。
だが、
心の奥底では、
煮えたぎるような憤りが、
渦巻いていた。
この屈辱が、
彼女の心に、
深い、
深い、
傷として刻み込まれていく。
それは、
やがて、
彼女を突き動かす、
原動力となるだろう。
評定が終わり、
重い足取りで城下を歩いた。
石畳の感触が、
足の裏から、
じわりと伝わってくる。
城下は、
以前にも増して、
活気を失っていた。
飢えと疲弊に喘ぐ領民たちの姿が、
濃姫の目に、
痛いほど焼き付く。
痩せこけた子供たちが、
道の片隅で、
力なく座り込んでいる。
その細い腕や足は、
まるで、
枯れ枝のようだった。
土埃が舞い上がり、
喉の奥に、
ざらつく感触を残す。
汗と、
そして、
かすかな呻き声が、
五感を刺激し、
濃姫の胸を締め付けた。
それは、
単なる光景ではなかった。
尾張の「今」を、
肌で感じさせる、
生々しい現実だった。
「このままでは、尾張が滅びる」
その焦燥感が、
濃姫の心を、
激しく揺さぶった。
胸の奥底から、
突き上げるような不安が、
彼女を襲う。
それは、
まるで、
底なし沼に、
ゆっくりと沈んでいくような感覚だった。
息が詰まるような、
重苦しい空気。
この危機感が、
彼女の思考を、
より一層、
深く、
そして、
切実にさせていく。
何とかしなければ。
この状況を、
変えなければならない。
その強い思いが、
彼女の心の中で、
ゆっくりと、
しかし、
確実に、
膨らんでいった。
それは、
彼女の行動を突き動かす、
確かな原動力となるだろう。
老臣からの報告は、
濃姫の心に、
さらなる重荷を課した。
吉法師との盟約。
その内容は、
濃姫にとって、
あまりにも屈辱的なものだった。
「偽りの姫」として、
政略結婚の道具となる。
その言葉が、
彼女の耳に、
鉛のように重く響いた。
唇を噛み締め、
その屈辱を、
必死に飲み込む。
しかし、
彼女には、
他に選択肢がなかった。
家臣たちの混乱。
領民の疲弊。
このままでは、
織田家は、
確実に滅びる。
その未来が、
鮮明に、
彼女の脳裏に浮かんだ。
「家と民を守る」
その大義が、
濃姫の心の奥底から、
強く、
強く、
発動した。
それは、
彼女が、
これまで生きてきた中で、
最も明確に感じた、
「価値観の発動」だった。
私情を殺し、
自らを犠牲にすること。
それは、
容易なことではなかった。
しかし、
この大義の前では、
彼女の個人的な感情は、
取るに足らないものに思えた。
この決断は、
彼女自身の存在意義を、
問い直すものだった。
何のために、
自分は生きているのか。
その問いへの答えが、
この盟約の中に、
明確に示されている気がした。
彼女の心は、
この瞬間、
武家の姫として、
そして、
織田家の娘として、
確固たる覚悟を決めたのだ。
部屋に戻り、
濃姫は、
そっと脇差を抜いた。
刀身に映る自分の顔は、
まるで、
感情を失った人形のように見えた。
その瞳の奥には、
決意の裏に隠された、
深い孤独感が宿っていた。
それは、
誰にも理解されない、
彼女だけの感情だった。
この盟約が、
自分自身を犠牲にする道であることを、
彼女は理解していた。
しかし、
他に選択肢がないことも、
痛感していた。
冷たい刀身が、
彼女の指先に触れる。
その冷たさが、
彼女の決意を、
より一層、
研ぎ澄ませるようだった。
夜空には、
満月が、
静かに輝いていた。
その光は、
濃姫の心を、
優しく照らす。
しかし、
彼女の心には、
拭い去れない、
深い孤独が、
横たわっていた。
この重責を、
誰と分かち合えばいいのだろうか。
彼女は、
一人、
静かに、
涙を流した。
それは、
誰にも見せることのない、
密かな涙だった。
だが、
その涙は、
彼女の心の奥底に、
新たな決意の種を、
蒔きつけた。
この涙は、
決して、
弱さの象徴ではない。
それは、
彼女が、
この困難な道を、
歩み続けるための、
静かな、
そして、
確かな、
「助走」だった。
明日の朝には、
彼女は、
再び、
毅然とした、
武家の姫として、
その場に立つだろう。
その瞳には、
揺るぎない決意の光が、
宿っているに違いない。
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