第10話「分子分裂する夏枝」
俺はチャンスを逃さなかった。
ズイズイと縄梯子を登り、帆船の甲板へと躍り出る。
ピンクと淡い黒のカンテラの光の下、くるくると独楽のように回る服が見えた。
じっと見つめると、かすかな光の中にピンク色の髪と、黒く燃えるような燠の双眸、白い歯が視界に入る。
「久しぶりに金貨を持ってる人~♪ おじさんって、やっぱり“持ってる”人?」
ニカニカと嘲笑を混じえた声と、値踏みするような瞳が俺を貫く。
彼女はちょこちょこと距離を詰めてくる。
ガシッと抱きついてきた彼女に目をやると、俺の臍のあたりに彼女の頭頂部がある。
ようやく、彼女の髪が薄暗いピンク色だと確認できた。
声の響きは、少女そのもの。
コロコロとした悪戯な響きに、どこか慈悲深さが潜む。
だが、彼女の肌は闇と同じか、それ以上に黒く、まるで“まだ強調できる部位がある”と言わんばかりに、その部位を俺に押しつけてくる。
服と目と口──それ以外は闇に溶け、宙に浮いているようにすら見える。
どこかで見たような要素ばかりだが、肉体があるだけマシなのかもしれない。
カンテラの光の中、彼女は妖艶な踊りを披露していた。
それは、まるで歓喜にも似た、異質な儀式のようだった。
「ねぇ♪ おじさんは、どこまで行きたいの?」
その問いが、俺の首をじわじわと締め上げてくる。
(金貨の効力はわからない。だが、フルベットするしかない!)
波音が響く中、冥界のど真ん中でゲームが始まった。
幸運の女神に祈ることもできない。
見えない双眸を持つ天使に、運命を預けるしかない。
彼女がじっと見つめる中、かすかに回転音が鳴り始める。
バタン、バタン──回転動力の車輪が、未来を占うルーレットを密かに回していた──。
「ねぇ? おじさん、金貨持ってるって言ったよね〜♪」
彼女はスッと俺の腕に絡みつき、燠のような瞳で俺を値踏みする。
俺は思わず後ずさり、受け身の姿勢を取る。
「ねぇ、早くちょうだい〜♪」
彼女は胸を俺の腕に押しつけ、その瞳は四六時中俺を値踏みしているようだ。
(下手に出たら、捨てられるな……)
警戒しながら背後を振り返る。
一本の梁と、カンテラの明かりに浮かぶ黒い水だけ。
水底は光を通さず、ただ黒い水が淀んでいる。
「ステュクス」。その言葉から、記憶の糸を手繰り寄せる。
ここは死後の世界への中継地点、ステュクス河だ。
終点は“辺獄”──地獄の最果て。
(古代の地獄には五つの階層があり、頂点に辺獄がある……そんな話、眉唾だと思ってたのに)
今、目の前にその“眉唾”が立っている。
彼女が、俺を値踏みしながら。
「おじさん大丈夫? すっごい汗かいてるよ?」
キャハキャハと笑う声が、現実へと俺を引き戻す。
「ねぇ、観念してちょうだい?」
彼女は指を一本ずつ開いたり閉じたりし、片手を差し出す。
「金貨は渡す……でも、一枚しかない。どこまで行ける?」
彼女の反応を探るため、懐中時計を確認するふりで告げる。
「え〜、一枚だけ? うーん、そこそこ遠い場所なら行けるかな?」
彼女は暗闇に視線を向け、思案する。
「裁判長が言ってた。“罰を浄罪するために神として働くなら、辺獄行きは免除してやろう”って。……心当たり、ある?」
彼女の思考を止めないよう、情報を小出しにする。
金貨と俺自身の価値が釣り合うことを、祈るしかなかった。
「ふ〜ん……おじさん、つまり“派遣社員”ってこと?」
「まあ、そんなところだろうな」
「じゃあ金貨一枚でも大丈夫かも。──おじさん、会社のこと、あんまり聞かされてないでしょ?」
彼女は呆れたように俺を見る。
「そういえば自己紹介してなかったね。あたし、カロンっていうの。カロンちゃんって呼んでいいよ♪ おじさん」
ピンク色の舌が、ぺろりと唇から覗く。
「俺は夏枝重だ。よろしく頼む」
片足を引いて、軽くお辞儀をする。
「うちの会社はね、現世で死んだ魂に仕事を斡旋してるの。だから“派遣管理会社”ってわけ」
「でも普通の派遣とは違うの。重罪を負った魂は辺獄送りになるけど、その場合は金貨が三枚必要なの」
彼女は説明しながら、俺を値踏みするように見つめる。
「でも、おじさん一枚しか持ってないでしょ?」
「……それで、俺は神様みたいなことをする、って?」
「ラケシスおばさんが言ってたんでしょ? じゃあ、そうなんじゃない?」
彼女の言葉に、俺の常識が軋む。
人間の常識は、超次元には通じない。
カロンは俺の動揺を無視し、淡々と続ける。
「金貨一枚だと、複数ある次元の狭間の一つ……つまり“平行世界の異世界”に転生できるの」
「ただし、今の時間か、その世界の“過去”にしか行けないんだけどね」
「このままステュクス河の本流から、アケローンという支流に入るの。そうしないと平行世界には渡れないのよ」
許容範囲を超えた情報に、俺の脳が悲鳴を上げる。
「つまり……“異世界の現在”か“過去”に転生するってこと?」
「そう。四十六の次元の狭間にある、特定の場所にしか行けないの。本流に流されちゃうと、河底に堆積して──永遠の渇望と絶望で溺れることになるわ」
彼女の目は一瞬、悲しげに俺を見つめる。
「……行き先って、選べるのか?」
ふと湧いた疑問を口にする。
「いいえ。金貨に記されてるの。だから、それを見なきゃ連れて行けないの」
彼女は再び、手のひらを差し出す。
「わかった。カロン、頼む。どこに行くのかわからないけど……安全に連れてってくれよ」
俺は胸ポケットから金貨を取り出し、彼女に手渡す。
「お・じ・さ・ん、カロンちゃんって呼んでいいんだよ? 特別に♪」
彼女は金貨を歯で噛み、俺の腕を再び掴む。
「特別? それってどういう……」
その瞬間、俺は運命が仕組まれていたことを悟る。
「だって! ラケシスおばさんがわざわざ金貨を渡したの、どうしようもないクズ人間のおじさんなんて──千二百年ぶりなんだもん♪」
カロンはそう言い放ち、俺の腕を自分の腕に絡める。
その言葉の意味を考え続ける。
だが、今の俺には答えが出ない。
その示唆を理解する前提知識が、まるでなかったのだ。
──その言葉が、後に俺を長く苦しめることになるとは、このときの俺には知る由もなかった。
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