第6話「違和感の正体と閉ざされた死」

 俺は、ゆっくりとビルへと歩を進めていく。

 チラシによれば、「神材派遣管理会社 ユル法人会社」は、このテナントビルの十五階に居を構えているらしい。

 だが、ビルに近づくにつれ、見た目の異様さとは別の、別の違和感が俺を襲い始めた。


ぬめっとした、冷たい何か。まるで、肌にまとわりつく奇妙な気配。

 二つのビルの前に立った瞬間、俺の背筋はぬめっとした冷気に包まれた。

 一つは、ユル法人会社が入るテナントビル。


もう一つは、隣に聳える雑居ビル。左右のビルの高さに、さほどの差はない。

 俺は、なぜか雑居ビルの方へ歩を進めた。

この違和感の正体を知りたかった。


 雑居ビルの出入口には、階層ごとのテナントを示す表示板が掲げられていた。

(一階、三階、七階……十階。)


 隣のテナントビルにも、同様の階層表示がある。

(一階、三階、七階……十階。)


 (……?)

 (チラシによれば、ユル法人会社は十五階……。)

 おかしなビルだ。十五階など、存在しない。


階層表示に、ユル法人会社の名前もなかった。

 一体、何が起きている?


 俺はチラシを握りしめ、情報を精査した。

 そして、一つの結論に至った。

──すべては、詐欺まがいの募集広告だったのだ。


 やはり、そうだったのか。俺は乾いた笑みを浮かべた。

如何わしい募集広告。いわゆる、詐欺ってやつだ。


 交通費と貴重な時間を溶かしただけで済んだなら、まだ優しい方だ。

人生の半分を溶かすような最悪の選択を避けられたのだから、この幸運を享受できるだけマシだった。


 乾いた微笑みが、この現実をさらに強く実感させた。

そう、すべてが現実だった。


 だからこそ、俺は見たくなったのだ。

存在しない十五階があるかどうかなど、もはやどうでもよかった。


 (そうさ、怖いもの見たさってやつだ。試してみよう。

 それこそが、終幕フィナーレってやつだ。)


 俺は、昇降機の呼び出しボタンを押した。

 彼女──昇降機は、少し間を置いて返事をした。


 中へ乗り込むと、操作盤には丁寧にも十階までの階層ボタンが並んでいる。

……だが、俺はなぜか、自分一人ではないような気がした。


 いや、気のせいだ。

詐欺まがいの広告に動揺しているだけだ。


 (よし、その目で確かめてみよう。

 この最上階に、何があるのか──。)


 そう思いながらも、俺はその意志に反して、そっと十階のボタンを押した。

 階層ボタンが点灯し、扉はゆっくりと閉じる。


電光掲示板がわずかに点滅しながら、階層を上げていく。

 (一階、三階、五階。)


 少しずつ、それが目前に現れるのかと、俺の体は身悶えた。

歓喜と焦燥に駆られた獣が、閉ざされた死の中で絶叫するように。

 (八階……十階!)


 十階に到達した瞬間、照明がちらつき、内部が漆黒に染まった。

 俺は、すべてが絶頂に達したと勘違いし、狂おしいほどに賛美した。

 (……ん? 何も起こらない──)


 確かに、昇降機は十階に辿り着いた……はずだ。

電光掲示板は、確かに“そこ”を指していた。


 けれど、彼女はその相貌をピクリとも動かさない。

そして、その口を開こうともしなかった。


 まるで、十階に着いたことを知らせると、気まずそうに黙り込み、ふっと灯りを落とした。


その沈黙は、拒絶のようでもあり、照れ隠しのようでもあった。

 ──まるで、恋人のように。


 昇降機は、まるで“飽き”を知ってしまったかのように、俺にそっぽを向いた。

 おそらく、十分ほどはうんともすんとも言わない彼女の中に、俺は閉じ込められていた。彼女の中で呼応するのは、俺一人だけだった。


 もしかしたら、彼女は俺とだけ、時間を過ごしたかったのかもしれない。

 彼女は、恋人たちがふとした嫉妬と愛情で板挟みになり、落ちていく──

そんな深い恋慕のスパイラルを、俺に体感させようとしていた。


 そんな俺の気持ちを察したのか。

彼女、昇降機は遅ればせながら、備え付けの音響機器から「チン!」という遅れた音を漏らした。 まるで、ため息交じりの呼気を漏らし、自らに鞭打ったかのように。


 そうした次の瞬間、俺は背中から昇降機の壁へ急激に引き寄せられた。

 「ガンッ!」という衝撃と苦痛に呻きながら、俺は電光掲示板へ視線を向けた。

 (十階、十二階……どんどん階層が?)


 彼女は、前へと加速していく。

まるで壊れたジェットロケットのような勢いで。


 電光掲示板は、数十秒前からその意味を成していなかった。

表示は崩れ、見るも無残な彼女の慟哭を表していた。

 (どこへ連れていくんだ? この先に、何がある?)


 彼女は俺を連れて、なおも加速していく。

それは、ある意味、俺の望みを叶えてあげようとした、彼女なりの優しさだった。

 彼女は無機質であるが、そこには愛があった。


 彼女は、俺と共に愛を育みながら、

俺を連れて、存在しない場所へと、今まさに漕ぎ出そうとしていた。


──俺は、今もなお、彼女の中にいる──。

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