消えゆく日々に、きみと選んだひとつの未来

葉方萌生

プロローグ

0-1

 テーブルの上に置いていた飲みかけのコップが、カタカタと小刻みに揺れているのを見た。


夕映ゆえ―、お母さんのメガネ、どこ置いたか知ら——」


 母の言葉の切れ端が、登っていた梯子から落っこちたかのように突然途切れる。と同時に、ドンッという地響きが脳天をつらぬいた。


「えっ……?」


 声を上げたのも束の間、グオオオオオオッという地鳴りと、リビングの床が大きくぐわんと揺れる感覚に、その場で体勢を崩した。


「夕映ッ!」


 裸眼の母が、私に向かってぐんと手を伸ばす。その手を掴もうとした。けれど、激しい揺れに、地面から伸びてきた手に引きずられるようにしてリビングに転げる。


「おい、二人ともテーブルの下へっ!」


 一人、祖父の仏壇が倒れないように必死に抑えている父が、私たちに指示を出す。


「お父さんも早く!」


 私と母の必死の叫びを聞いた父が、歯痒そうに顔を歪めて、祖父の遺影だけ乱暴に掴んでテーブルの下へと潜り込む。

 ガッシャン! ガラガラ! ドン! ビシャン!

 家じゅうから響き渡る音、音、音。食器棚が前後に揺れて、扉から食器が飛び出してくるのを見て「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。母が震える私の身体を抱きしめる。その上からさらに、父が。


「もうちょっとの辛抱やけん! 二人とも頑張れっ」


 普段は雄々しい父の声も、今日ばかりは言葉の輪郭があやふやで震えているように感じた。

 両目をぎゅっと瞑り、両手で耳を押さえる。そうやって世界が崩壊する音を全身で受け止めて、やがて揺れはおさまっていた。


 一瞬しんと静まり返った我が家だったが、後からまた一つ、また一つ、とお皿が割れる音が聞こえる。静寂の中に響き渡る鋭い衝撃音に、心臓がドクッ、ドクッ、と何度も跳ねた。


「大丈夫……大丈夫やけんな……。でもまた余震がくる……油断はするな」


 静かに震える父の声は、今まで聞いたことのないぐらい不確かで、聞いていられなかった。テーブルの下に隠れたまま、母と顔を見合わせて互いの安否を確かめ合う。額からは大量の汗が流れていて、恐怖で身体は動きそうになかった。


 十分、二十分、三十分……と時が経っても、余震に見舞われることはなかった。ようやくテーブルの下から這いずり出てきた私たちは、床じゅうに窓ガラスの破片やお皿、倒れた棚、本が散らばっていて足の踏み場がないことに絶句する。


「……避難所に行こう。確かみどり中が、避難所やったやろ。また地震が起こって津波が来るかもしれん」


「避難所……いやそこまでしなくても……。津波だって、日本海側やとそんなに来んって教わったよ」


 避難所に行こうと言う父に、返事を渋る母。母の気持ちはなんとなく理解できる。避難所に行けば不自由な生活を強いられる。まだこれ以上大きな地震が来るかも分からない。家には大事なものがたくさんあるし、何より住み慣れた場所を離れるのが嫌なのだ。


「そんなこと言ってる場合やない。これからまたどんな大きい地震が来るかも分からん。家ん中ぐちゃぐちゃでなおすのには時間がかかる。やけん、早く行かんとっ!」

 

 父の必死の訴えに、私も母もただならぬ気配を察知し、「そこまで言うなら」と頷いた。

 崩壊した家の中で大きなリュックサックに必要なものを詰めていく。こういう時のためにとっておいた水、保存食、スマホの充電器、携帯トイレなど。父は祖父の遺影までリュックに詰めた。ずっしりと重たくなったそれを父が一人で背負う。私も自分の鞄に財布やスマホ、折り畳み傘、着替え、タオル、生理用品、ティッシュ、ビニール袋なんかを入れた。もちろん食べ物も。それから仲良しの友達である優奈ゆうなとお揃いのブレスレットが左手にちゃんとついていることを確認する。

 大丈夫、大丈夫……。

 お父さんとお母さんについて、これから避難所に向かう。大きな地震が来ないうちに辿り着けば大丈夫。私はまだ何も失っていない。


 みんなで必要なものを持って家から出ていく。目の前に広がる光景にあっと息をのんだ。 

 薙ぎ倒された電柱、お店の看板、地割れ、窓ガラスの破片、倒壊した古い民家。

道路では車が立ち往生していて、クラクションの音がそこらじゅうで鳴り響いている。子供の手を引いて走る者、車から這い出てくる者、人という人がパニック状態になって駆けずり回っていた。赤ん坊の泣き声がどこからともなく聞こえてくる。遠く目を細めると、崩壊した歩道橋の下に潰れている車も見えた。

嘘みたいな光景が広がっていて、その場に立ちすくむ。足がガタガタを震えて父と母に置いていかれそうになった。


「夕映、何しとーと!? 早く行くよっ」

 

 信じられない現実に目が眩んでいるのは母も同じなはずなのに、振り返って私を呼ぶ声は力強かった。

 行こう……とにかく、行かなきゃ。

 避難所になっている翠中学校までなんとか足を動かす。歩きづらいところが多くてその度に足が震えた。それでも前だけを見て進む。進まなければいけなかった。

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