第十八話(最終話) わたしたちの生き方
十二月の昼下がり。
今日も千春さんは、朝から家に来て家事を手伝ってくれている。
作り置きのおかずを一緒に作って、冷めるのを待つ間に洗い物を済ませる。
拓馬は仕事で、結は幼稚園。いつも通り、私と千春さんは二人だけの時間を過ごしている。
洗い物が終わって、一休み。紅茶を入れて、カップを手にすると、冷えた指先に温かさが広がっていく。「ふうっ」と息をついてソファに座ると、隣に千春さんが座った。
「寒くなりましたね~」
そんなことを言いながら、千春さんがいそいそと私のブランケットに入ってきた。手を繋いで、私の肩に頭を預けてくる。
「……でも、あったかいかも」
私がそう言うと、千春さんはさらにしなだれかかってきた。
「そうですね」
テレビを付けるのも惜しいくらいに、穏やかな時間だった。
「私、そろそろ仕事始めようかな」
つぶやくと、千春さんが顔を上げてこちらを見た。
「え?」
「千春さんに手伝ってもらって、かなり余裕が出てきたから。このままじゃみんなに頼ってばかりだし」
家事と育児の負担が減っている今、この状況に甘えているとバチが当たりそうだ。それに、千春さんと出会って分かった。私ももう少し、社会との関わりを増やしたいって。
「ええーっ、それじゃわたしと会える時間も減っちゃうじゃないですか……」
千春さんが、腕にしがみついて寄りかかってきた。
「大丈夫だよ、千春さんとの時間は確保するから」
そう言って頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。猫をあやしているような気分だ。
「……そうだ! 良いこと考えました」
突然、千春さんが立ち上がって言った。
「HIDAMARI珈琲で働けばいいんです。そしたら一緒にいられるし、一石二鳥ですよ!」
「いやいやいや、それはムリだって!」
私は思い切り、首を横に振った。
「あんな良い雰囲気のカフェ、私は似合わないよ……。コーヒーだって上手く淹れられないし、どんくさいし……」
「そんなのわたしが教えますって! 手取り足取り!」
「それに、同じ時間のシフトにはならないんじゃない? それこそすれ違い生活だよ」
「ああ、そっかー。店長との二人体制ですもんね。良いと思ったんだけどなぁ」
しょんぼりする千春さん。さっきからころころと表情が変わるので、何気ない会話をするのが楽しい。これからもこういう時間を過ごしていきたい。
「あー……っと、それじゃあですね。実はまだ誰にも言ったことないんですけど」
「なに?」
もじもじと、いつになく言い淀む千春さんに、わたしは首を傾げて促した。
「そのー……実は、いつかわたしもカフェを作りたいんです。お金も貯めないとだし、腕前も知識もまだまだですけど。もしそのときは、うちのカフェで働いてくれますか?」
「えっ……」
「あーいやいや! そんな実現するか分からないような話してもしょうがないですよね! 何言ってんだかもー! 忘れてください!」
「それ、すごく良い……」
「……え?」
千春さんが、落ち着いた木の香りがするカウンターでお客さんと話している。私は洗い物や片付けをしながら、その横顔を眺めている――。想像するだけでじんわり心が温かくなる。
「がんばって。私、本気で応援する。協力できること考えてみるね。実現しようよ、絶対楽しいよ」
捲し立てながら無意識にグイグイ近づいてしまったようで、千春さんは仰け反っている。
「ちょ、ゆーなさん、近い……」
照れる千春さんが可愛くて、愛しくて――思わず唇を重ねていた。
「ゆーなさん……」
千春さんの目が潤む。決壊したように、涙が大量に溢れてきた。
「やばい、ゆーなさんが、応援してくれるって言ってくれて、めちゃくちゃ嬉しい……。がんばる……っ! わたし、絶対がんばるからぁっ……!」
千春さんの頭を抱き寄せ、私も言った。
「がんばろう、一緒に」
結の迎えに行く時間まで、二人でカフェのことを話して過ごした。どんな雰囲気がいいのか。メニューの種類。お店の名前も。全部実現できるとは思わないけど、そんな想像だけでも楽しかった。
「ただいまー! ちいちゃんいるー?」
結を連れて家に戻ると、通園バッグを投げ出すかの勢いで千春さんに駆け寄った。
「おかえりー! ちいちゃんいるよー」
千春さんが手を広げると、結はその胸に飛び込んだ。
「結ちゃん、手洗いうがいして、着替えたら遊ぼうね」
「はーい! そうだ、おかあさん!」
私が夕飯の準備を始めようとしていると、結が通園バッグから何かを取り出した。
「折り紙……?」
「あおいちゃんからだよ! ゆいのおかあさんに、って!」
結は、私に手渡すと洗面所にダッシュで手を洗いに行った。折り紙で作られた手紙を開いてみると、女の人が二人、手を繋いでいる絵が描かれている。もしかして、私と千春さん……?
あおいちゃんは、前に千春さんが泣いているのを見て、私が悪いんだと怒っていた。実際、私のせいではあったんだけど、これはあおいちゃんなりの仲直りのしるしなんだろうか。あおいちゃんも、本当に良い子だなと思った。
戻ってきた結に伝えた。
「あおいちゃんに、今度また遊びにおいでって言っておいて」
「うん!」
夜、拓馬が帰る前に夕飯を三人で食べてから、千春さんはいつも通り帰った。拓馬を避けているわけではなく、帰りを待っていると遅くなりすぎるからだ。
結を寝かしつけた後、キッチンの片付けをしていたら拓馬が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり。今日も、千春さんに手伝ってもらって作り置きのおかずを作ったよ。あとで味見してみて」
カフェの話は、まだ私と千春さんだけの秘密だ。
「うん、ありがとう」
テーブルに着く前に、拓馬は鞄から紙を取り出した。
「これ、印刷してきた」
それはA4サイズの一枚。表題に『念書』と書かれている。
念書
令和X年 X月X日
桂木拓馬
私、桂木拓馬は、妻・桂木優菜と東堂千春が交際関係にあることについて承諾いたします。
二人の関係は、私たち夫婦および家族の関係を損なうものではなく、不倫には該当しないと考えています。
よって、私は二人の交際を公認し、これに対して一切の異議を申し立てないことをここに記します。
以上
「もし俺の心変わりで裁判とかになった場合、いくら合意してたって言っても圧倒的に俺が有利ならしいんだよね。それじゃ二人も安心できないだろ。まあ、こういう文書も大きな効果はないみたいだけど、一応ね」
拓馬は、本当に私たちのことを考えてくれている。
「ありがとう、本当に。何回言っても感謝しきれないよ……」
それにしても――。
「この紙、会社で印刷してきたの……?」
拓馬は目を丸くして、笑い出した。
「まさか。こんなの誰かに見られたら説明がめんどくさすぎるよ。スマホで作って、コンビニでプリントしてきたんだよ」
私はホッとして、笑いが堪えきれなくなってしまった。
翌日、拓馬と結を送り出し、家の用事も済ませた昼前。
私は、冷たい風の吹く街を歩いていた。
しっかりめのダウンコートとニット帽、ふかふかのムートン製手袋。それから風邪予防も兼ねたマスクで完璧な防寒。
歩いて二十分かからないほどの場所に、その店はある。
木材の温かみがある古民家カフェ、『HIDAMARI珈琲』。千春さんが、ここで働いている。
重量感のある扉を開けると、澄んだドアベルの音と共に、コーヒーの香りが鼻をくすぐる。
そして迎えてくれるのは、
「いらっしゃいませ、ゆーなさんっ!」
千春さんのとびっきりの笑顔。私も思わず、微笑み返す。
「千春さん、カフェラテお願いします」
「了解でーす!」
元気な返事をして、エスプレッソマシンに向かう千春さん。
私はそれを見送り、テーブルについて本を取り出した。本を読むふりをして、千春さんの姿を捉える。
グラインダーで挽いたコーヒーの粉をしっかり量って、タンパーでポルトフィルターに押し固める。それをマシンにセットし、白いカップを取り出した。マシンのスイッチが押されると、濃厚なエスプレッソが香りと共に抽出される。慣れた手つきではあるが、洗練された動きだ。次に千春さんはピッチャーにミルクを注ぎ、マシンの横にあるスチームノズルできめ細かく泡立てた。鋭い目で泡立ちを見極め、スチームミルクをカップに入れていく。凛々しい目つきに心を奪われ、思わず見惚れてしまう。
コーヒーを淹れている千春さんは、彼女の一番カッコいい姿だと思う。この姿にファンも多いようだ。私はそんなカッコよさの他にも、可愛く甘えてくる顔、切なげに見つめてくる顔、未来を夢見る顔、サディスティックに攻める顔……いろいろな千春さんを知っている。そして、私が知る千春さんの顔がこれからも増えていくだろうことが、楽しみでしょうがない。
千春さんが、完成したカフェラテを運んできた。ずっと見ていたのがバレないように、すっと視線を外した。
「お待たせしました、カフェラテです」
「ありがとう」
受け取ると、千春さんは周りを見渡してから私の耳元に囁いた。
「ゆーなさん、見てたでしょ」
「!?」
気づかれていた。恥ずかしくなって思わず固まったあと、ゆっくりと頷いた。千春さんはいたずらっぽく笑って、
「ちいちゃん特製、ハートのカフェラテです」
私にだけ聞こえるようにそう言った。
コーヒーの深みと、ミルクの甘いまろかやさが混ざった香り。そして、カップの上に浮かぶ優しい形のハート。
それは、飲み終えてもずっと私の胸の中に残る、消えないハートだ。
ラテアートにハートをのせて ――終わり――
ラテアートにハートをのせて 千鶴田ルト @cheese_tart_kr
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