第26話


 アースコット教授の背中が見えなくなってから、僕とディオネは母さんの部屋まで歩いた。

 案内看板に書いてあった通り、部屋の扉の表札には『デミストニア地区議長 イレニア・ライフアリー』と印字されていた。


「……ここが」


 緊張しているディオネが呟いているが、気にせず扉をノックする。

 母さんは、今の時間は公務中のはずだ。だから、横で深く呼吸をするディオネのことを馬鹿にできない。だって、扉を開けたら議長だ。仕方ない。

 

 ノックをしてから、少し時間が経って部屋から「どうぞ」と以前も聞いた声がした。経ったといっても、深呼吸五回分くらいだ。

 ディオネにつられて緊張してきた僕も、ふぅ、と息を整えて「失礼します」と取っ手を手に取り、扉を開けた。

 いや、母さんに緊張してどうするんだよ。






 扉の向こう、母さんの部屋から、僕の視界一面に日の光が当たって、思わず目を瞑った。

 確か、南向きの部屋だったからか、昼前にも関わらず快晴のようで細めた目をゆっくりと開ける。


「今日は一段と晴れているから、悪いわね」


 光に慣れてくると、執務用の机から部屋の中央にある応接の机に移動する母さんの姿が見えた。

 淡い青色のシャツに、同じ色の長いスカートを着て、腰あたりに黒のベルトをつけている。

 

 ようは、薄手の服を着ていた母さんに、あれ? と首をかしげる。

 まだ、寒い冬なのにもかかわらず、そんな服で問題な――。


「あっつ」


 と思わず声が出た。

 扉を開けて中に入れば、とんでもない暑さの空気が僕を包んだのだ。


「うわぁ」


 僕に続いて、ディオネも部屋の空気に目を見開いている。

 肌寒かった議事堂の廊下と比べて、春から夏に変わる時くらいの暑さだ。額に汗が滲んで、手先が痒くなってくる。


「上着は脱いでね。暑いでしょ、この部屋」


 母さんの言う通り、この部屋は暑い。母さんは続けて「冷たいお水でいいかしら。それとも温かいお茶?」と僕たちに聞いた。

 僕は「水で」と返して、横で手うちわをしているディオネも「お水をください」と言う。

 さっきまで温かかった上着も、この部屋ではただのお荷物だ。

 脱いだ上着を応接用の椅子にかけると、ちょうど母さんが水を持ってきてくれた。


「……この部屋、どうしてこんなに暑いんです?」

「さぁ? 部屋の温度は別の部屋で一括管理しているから、寒がりの人がいるんでしょ」


 持っていた盆から水瓶とカップを机に置いて、母さんは僕たちと対面に座る。そんな彼女を見て、僕とディオネも続けて座った。

 少し沈み込む椅子のクッションは、触っただけで底知れぬ高級感があった。

 さすが議長室。椅子もそうだけど、カップを置いている机に敷いている絨毯、それに照明と至る所で、有名店のものを使っているのがよく分かった。







 少しの雑談、もとい他愛のない会話を母さんとしていれば、横で緊張がまだ溶けていないディオネの方に、母さんは目を向けた。

 

「それで……あなたがディオネさんね」


 一言、母さんが言っただけで背筋を伸ばす彼女は、「は、はい!」と大きな声で返事をする。

 すぐ横に僕がいることを分かっていないの? 耳が、キーンって鳴ったんだけど。


「初めまして、デミストニア地区議長のイレニア・ライフアリーです。あと、ファビオのママです」


 柔やかに、自らのことを紹介をする母さんは一声が多い。こんな時でも、「ママ」と言うのはいかがなものか。

「ママ?」とディオネも首をかしげているじゃないか。

 

「え? ファビオさんってお母様のこと――」

「もう、いいから。自分のこと話して」


 困惑した様子のディオネが、何を言い出そうとしたのかはその先を言わなくとも分かる。

 断じて、母さんのことを『ママ』なんて子供じみた呼び方なんてしていない。前までは『母上』と呼んでいたのだから。断じて違うのだ。断じて。

 

「あ、私、ディオネ・スカンタールと言います! えぇっと……」

「『深窓の令嬢と憂う騎士』の作者でしょ。会えて光栄よ」


 ディオネが自己紹介をすると、母さんは一段と柔やかになった。

 でも、母さん。その原稿は出版許可証をもらってない原稿だ。この感じ……やっぱり先に読んだな。

 経済広報課の岩頭でも、母さんには丸め込まれるのか。


「ありがとうございま――」

「まだ出版前なんだけど。許可もらってないんですけど」


 素直に、褒め言葉として受け取ろうとしたディオネもどうかと思う。議長印がないと何もできないんだよ、僕らは。

 僕の言葉に、困惑気味に眉間にシワを寄せたディオネを横目に、母さんに言い返すと「あら、叱られちゃった」と肩をすくめた。


「……仕方ないわね。ほら、許可証出して」


 やれやれといった様子の母さんに、横に置いた鞄から許可証を取り出して机に置く。

 「これね、少し待ってね」と不満げな顔を隠さない母さんは、立ち上がって窓際の執務用の椅子に座った。

 やっと、押印をしてくれることに、今の仕事とこれからの仕事を考える。

 あ、原板の予備、もらってないや。


「綺麗な人ですね」


 結構仕事が立て込んでいたあの親父さんの所に行かないといけないな、と、いつ行けるか考えていると、水を一口飲んだディオネが僕に耳打ちをした。

 

「あれでも、六児の母だから」

「六人ですか、すご」


 当然、僕を含めて六児の母。アレックス兄さん、ビクター兄さん、キャロン姉さん、デュラン兄さん、エリー姉さんと最後の僕。

 僕が十八歳で、アレックス兄さんは三十一歳くらいだったかな。すごいよね、十年ちょっとで六人も産むなんて。


「そうよ。若く見えるって評判なの」

「若く見えるっていうより、若いですよ!」


 僕らの話し声が母さんにも聞こえていたようで、「そう? ありがと」と慣れた様子でディオネに返す。

「よし、これでいいわ」と母さんが椅子から立ち上がると、「ファビオ、できたわ」と応接の机に押印済みの許可証を置いた。


 一応、ちゃんとした場所に押印したか、ズレとか写っていないところがないか確認はする。

 その辺のやり方は、通運の仕事を手伝って一人前にやれると自信があった。

 うん、ちゃんと押してる。


「じゃあ、もう用ないんで帰ってもいいですか?」

「えぇ、今来たばっかりじゃない。休憩しながら、お話するのは恥ずかしいの?」


「許可をもらいましたので、僕の仕事をやりたいんです」


「そんなの一日くらい、大丈夫よ。ね、ディオネさん」

「は、はい! えぇっと……」


「ほら、ディオネさんも言ってるのだから、いいでしょ?」

「……はい」


 はい、さようなら、とはいかないみたいだ。ディオネも母さんの勢いに押されて、しどろもどろに返事をしている。

 結局、母さんは許可証を机に置いてから、何かを探している様子だった。

 もう、用はないなと思ったが、まだ何かあるらしい。






「それで、最後の――」


 二人の会話も程々に聞いて、部屋の中でも高い位置にある窓から外を見ると、少しばかり太陽が動いていた。


「それは、令嬢と騎士の関係が進展して――」

 

「なるほど。そう言われれば、確かにディオネちゃんの言う通りね」


 いつからか、『ディオネさん』から『ディオネちゃん』に変わっていた母さんの呼び方に、何の違和感もなく言葉を交わすディオネ。

 さっきまでの緊張もないようで、経済広報課に申請したはずの『深窓の令嬢と憂う騎士』の結末を二人で感想を言い合っていた。


「……もう、いいですか」


 楽しそうなところを遮るのは、良心が痛む。

 ただ、母さんは公務中のはずだし、本当に出版に向けて作業をしたいのだ。

 ビクター兄さんの条件も、全くといっていいくらい進展してないし。


「何言ってるの。まだまだ話したりないわ。ね、ディオネちゃん」

「はい! ここまで読み込んでくださって、ありがたいです!」


 ディオネ、お前はどっちの味方だ? それにその目は何だ? 僕が悪いとでも言いたげに見てきやがって。


「出版してからでもいいんじゃないですか? なんで今なんです?」

「許可は出したから、問題ないでしょ? ねぇ」


 許可は今出されたんだ。あと、仲のいい雰囲気でディオネに同意を求めないで。あなたたち、今日が初対面だろ。

 まるで、この時間を作りたかったような仕向け方だし、「ねぇ」とディオネも母さんに返している。

 もうしばらく続きそうな感想会に、辟易する。







 ため息と共に、今日しようと考えていた仕事を明日に回せるか考えていると、扉からノックの音が聞こえた。

 母さんとディオネも聞こえたようで、感想会は一旦止まった。


「議長、いらっしゃいますか?」


 扉の向こうから男の声が聞こえる。

 母さんを呼ぶ声に、呼ばれたその人は深いため息をついた。


「……どうぞ」


 渋々、嫌々といったところか。

 年不相応に輝いていた母さんの目が、瞬時に据わる。


 扉の取っ手が、ガチャっと鳴って開いた先から議員らしき男が部屋に入ってきた。

 淡い茶髪は短く切られて、顎髭が小さく揃えられている。


「失礼します。……っと、対応中でしたか」

「えぇ、手短にお願いできます?」


 さっきまでの柔らかい雰囲気が、ピリついた。

 扉から少し入った男も緊張している様子で、母さんを見ている。


「はい、委員会まで数刻ですので、ご報告させていただいた次第です。では」

「ありがとうございます。……あぁ、先に進めてもらってもいいですよ」


 本当に短い。一言二言と、それだけ話した二人。

 それ以上の用はないと、男は「さようですか。では、そのように」と軽く会釈をして部屋から出て行こうとする。

 扉に手をかける男に、「お願いしますね」と母さんは言うが、男は返事もなくそのまま出て行った。

 扉が閉まると、また柔らかい雰囲気が部屋を包んで「ごめんなさいね。あの人無愛想なだけなの」と苦笑いをする母さん。


「大丈夫なんですか? 仕事」

「大丈夫よ。ファビオじゃあるまいし。ちゃんと、根回しは済ませてるわよ」


「お母様! さすがです!」

「そう? 私、できる女みたいだから、困っちゃうわぁ」


 なんで、僕と比べて話すんだよ。

 悪いね、僕が半人前みたいで。

 あとディオネ、お前は本当に……というか、母さんに『お母様』って言わないで。気持ち悪いから。





 長く続いた感想会も、そろそろお開きといった時間になったようで、母さんは軽く背伸びをすると、何かを思いついた様子でディオネに口を開く。


「そうだ! ディオネちゃん! 委員会、見学してみる?」

「いいんですか!?」


「いいわよ。新作の参考になれば私も嬉しいわ」

「ありがとうございます!」


 二つ返事で了承するディオネもどうかと思うが、委員会を見学するって結構なことだと思うんだ。

 

「じゃあ、ディオネちゃん。議場まで歩いといてくれる? 私も後で行くわ」

「は、はい! よろしくお願いします!」


 ディオネはそう返事をして、すぐさま立ち上がった。続けて、ディオネは興奮した様子で「ファビオさんは、見学しないんですか?」と僕に聞く。

 え? 僕にも参加しろと言っているのか?


「しないよ、先に帰ってる。やることはたくさんあるし」


 そうディオネに返す。僕の言葉に少しばかり驚いた様子の彼女は「そう、ですか。……じゃあ、また書店で」と言って、彼女自身の上着を持って足早に部屋から出て行った。




 感想会も終わって、ディオネもいなくなれば、帰り道にアレックス兄さんのことやアースコット教授の見合いの件の話はせずに済む。

 僕にとって、今日の仕事はもう明日に回しているのだ。書店に帰って休むだけだな、今日は。


「ところで、ファビオ」


 座り心地のいい椅子にもたれて一息ついていると、母さんが僕の方を見ていた。


「何ですか?」


 と僕は返すが、「この題材って、エリーとライアン君のことでしょ? いいの?」と訝しむ様子で僕を見ている。

 なかなか鋭いようで、確かにこの新作は母さんの言った通りだ。


 『深窓の令嬢の知られざる本性』の続編であり、ディオネ・スカンタールの新作『深窓の令嬢と憂う騎士』は、婚約中のエリー姉さんとライアンさんをモデルに改変に改変をして世に出す予定だ。だから、一作目と同じように――。 


「それはエリー姉さんが書いて欲しいって向こうから言ってきたらしいですよ」

「……そう、それなら何も言うことないわ」


 そもそも、ディオネは完全新作を書いていたところに、エリー姉さんが提案してきた流れがある。

 当のディオネも、最初は乗り気じゃなかった様子だったが、さらっと書けてしまったようで、今に至るのだ。天才だな、あいつ。


「もういいかな? じゃあ、母さん。僕はこの辺で」


 熱く盛り上がっていた感想会が、嘘のように静まった部屋から立ち上がって、かけていた上着を取ろうとすると、「ファビオ」と母さんが僕を呼んだ。

 もう僕も母さんも、何も用はないはずだ。


「何ですか?」

「あなた、いま一番いい顔してるわ」


 不意の褒め言葉に、少し驚いた。

 それに、あの日の夜の焼き増しのような笑顔を僕に向ける母さんに、僕も笑って肩にかけた鞄を軽く叩く。

 

「何、当たり前のこといってるんですか。僕の本業は、これ、ですよ」

「それもそうね。……近々、書店にも顔出させてもらうから、よろしくね」


 そうだ。

 僕の仕事は、今は『ゼクラット書店の元経営者で現書店員』だ。ただの書店員が申請とか、こんな所に来ることはまずないけど。

 

 でも、もう違う。僕は『ゼクラット書店の経営者に返り咲く現書店員』なのだ。

 ライフアリー商会なぞ、もう構ってられない。お手伝いなんて絶対しない。もうコリゴリだ。


「……お待ちしてます」


 一応、母さんからの来店予告に好意的に返すが、できれば、来ないでほしい。

 緊張しちゃうじゃないか。

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