第9話
ディオネの仕事場を見学させてもらうことは特段難しい事でもない。
あの夜の騒動を彼女に説明してからというものの、ずっと謝っては、退所だけは勘弁してください」と縋りついてくる。正直なところ、うんざりしていた。
それが控えめに言っても凄く邪魔な訳で、彼女に離れて欲しい事を含めて見学したいのだ。
「けどさ、この本どうやって作ったの?」
「……それはですねぇ、汚い版画機があるんですよ。 もう会ったと思いますけど、セイラとレイラも手伝ってくれて一緒に刷りました」
「書いたの君だよね?」
「そうだ、うぅん。そうです。私です。」
うん。そうだね。君が書いたけど、その時間だね。
何部を刷ったかはまだ聞かない。聞いたことを後悔しそうだから。聞くなら僕の横にビクター兄さんも一緒に聞いて欲しい。
「僕が聞きたいのはさ。この発行日なんだけど、あの喧嘩の日の翌日だよね?」
「筆が乗って、そのままの勢いで全部書き切りました。……すみません」
思っていたよりもずっと凄い才能だね。アースコット教授はディオネを見習って欲しいまである。異常な程に早いその執筆速度は、僕も羨ましいが。
五十数ページの本の厚さに、絵が五ページ程度の量を一晩で書き上げた凄さ。その辺の才能は素直に尊敬すらある。
「まぁ、こんなことあったらいいなって考えてた所でして……。実際に見たらすごかったですし」
そうだろうね。エリー姉さんの怒り様は凄まじかったから。
でも、僕が殴られた夜の方がもっと凄かったけどね。
「それでさ、こんな所でもあれだし。版画機って見せてもらえる?」
「まぁいいですけど。……汚くてもいいですか?」
汚いを擦ってくるディオネ。
別に貶めたい訳ではないが、彼女は根に持つタイプの人かもしれない。
僕もそこまで注意して感想なんて言えるわけないけど、今度からはもう少し考えてから感想は言うようにしようかな。
「汚くても構わないからさ、見せてくれよ」
「じゃあ、こちらです」
そう言ってディオネが離れる。
人の仕事場を見せてもらうのは、いつだってワクワクするものがあるが、さっきからずっと彼女は僕の脛に縋っていたのだ。精神衛生上よろしくないだろ。僕の。
ディオネが、崩れた家具を縫うように歩き出す。
僕もついていくけど、初めてこんな散らかっている所を歩くのだ。さすがにしんどくなってきた。
「うわぁ! 壊れてる!」
僕は下を向いて家具を分けて歩いたところで、ディオネの大きな声があがる。僕は上がった息もそのままに彼女を見た。
少し離れた場所でディオネが叫んだのだ。
彼女の足下には家具がまだ散らかっていた。ただ、目線の先にある古い絨毯が敷かれた場所には版画機だったものの足が折れていた。
足が折れているだけならまだ良い。折れた拍子に架台に乗っていた木の板も床に負けて折れていた。
あれではこれからの版画は厳しいかもしれない。
だって、刷る紙を置く場所が半分になったのだから。
「壊れてるじゃん」
「さっき崩れたからだ! 絶対そうじゃん……。最悪だぁ」
膝から崩れているディオネ。家具に膝をぶつけているけど痛くないのかな?
けど、これでは版画機は買い直した方が良いかもしれないね。
そもそも随分と古い型の版画機だったのだ。やむを得ないだろうね。
「まぁ、元気出しなよ。とりあえずここがそうなの?」
「……はい。そうです」
声に力がない。ディオネの横まで歩けば、彼女の力なく座り込んでいる。
これからも本を作るのだとしたらこれ以上ない版画機の買い直しは痛い出費だ。それならディオネのその表情も納得がいく。
仕事場。というより折れた版画機と使いかけのインク桶が横にあるくらいの、人が作業するには手狭な空間では僕達が売ってしまった紙はどこにあるのかまでは、パッと見ても分からない。俯く彼女に聞いてみる。
「本用の紙ってまだある?」
「……あぁ。紙ですか。ないですよ今。……全部使ったので」
「そうなんだ。ちなみにさ、紙ってどこから買ったか覚えてる?」
横のディオネは考え込んだ。咄嗟に出てこない感じを見ると随分前に買ったのか。それとも買い出しはディオネじゃないかもしれない。
いまだに座り込んでいるディオネ。寄り添うことは遠慮したい。体中二人とも埃まみれだし。
「近所の市場で買いましたよ。それがどうしたんですか?」
ディオネが答えたが、近所の市場なんて、闇市くらいのものだ。
だったら、色んなルートを辿ってそこに流れ着いたんだろう。じゃないとあんな高級な紙をディオネが買えるとは思えない。
「こっちの話だけどね。紙が僕達が使っているような良い紙使ってたからさ、気になって」
「貧乏ですもんね。……ハハ。私の作家人生ってこれで終わりなの?」
重傷じゃん。致命傷かな? 別に僕にはどっちでもいいけど。
これ以上、エリー姉さんが題材にならなかったらそれでいいし。ディオネくらいだしエリー姉さんを題材にするの。
作業場でも、インクの散らばり方を見れば、色々な家具にインクがついている。
そもそも、版画機が古いかどうかより、初めてやった作業だと思う。あの小さなセイラちゃんとレイラちゃん二人も手伝ったと言っていたし。
けど、ずっと横でブツブツうるさいな。
そろそろ現実を受け入れてくれ。版画機は壊れたんだよ。仕方ない。
「まぁ、もしもこれから本を作りたいんだったらウチの版画機使っても良いから」
「どうせ良い版画機なんでしょ? お高いやつの」
何故か僻まれる僕。汚いって言ったことが彼女の中で根が張っていそうだ。
「汚いっていったのは事実だけど、もっと遠回しに言えば良かったよ。ごめんね」
「別にいいですよ謝らなくて」
「どうせ事実ですから。気づくのが早いか遅いかだけですし」
そう言い捨てるディオネ。
いままであった事がない感じの人だな。
そう考えたらエリー姉さんを始め、僕のきょうだいは皆言いたいことをはっきり言うから楽かもしれない。
あ、ビクター兄さんは別。
「もう戻ろうか。聞きたいことは聞いたし。取り急ぎの用事は終わったし」
僕は終わった。ただ彼女はこれからだ。
まずは、商会に来てビクター兄さんと話してもらわないといけないしね。
「嫌です。ここに残ります」
何で? と聞き返す僕。彼女は座ったまま話す。
「だって、家具とかめちゃくちゃになったし……」
「じゃあ、僕が躓いて崩したことにしよう。どうせこの小屋建て直した方がいいでしょ?」
顔を上げて僕を見たディオネ。その顔はなんとなくもう一声と言っているように思えた。
「僕が、責任もって上に話をするからさ。そんなところに座らないで戻ろう」
「約束ですよ。いつ話すんですか?」
僕の横で立ちながら言うディオネ。
彼女の言い草に、少しイラッと感じるものがあるが埃でもう鼻が限界なのだ。
今日言うから。と僕が返せば、僕より先に出口に向けて歩き出すディオネ。
彼女の後ろ姿は未だに悲壮感が漂っていたものの、さっきよりかは軽い足取りで孤児院まで戻る。
比較的過ごしやすい朝、この日差しを感じれば終わったのだろう。
雲はまばらに見える晴れている空から注ぐ日差しは暑くなっていた。
掘っ立て小屋から出れば、僕はくしゃみを数回した。
ここまで耐えた僕の鼻に敬意を評したい。
先を行くディオネが、孤児院に入る勝手口らしき場所で止まった。マイケルと孤児院の職員のダルダラさんが二人して立って話していた。
ディオネと僕が戻ってきたのを確認した二人。マイケルが僕に向けて口を開けた。
「お疲れ様。結構物音凄かったけど大丈夫だった?」
「大丈夫ですよ。ディオネさんともちゃんと話せましたし」
事実だ。話していない事もあるけど。
「えぇ。彼女最初に見た時より、表情が暗いけど……本当だよね?」
マイケルが何を疑っているのか分からない。
僕はマイケルに、だから大丈夫ですって。と言葉短く返した。
ディオネは版画機が壊れてからずっとこの調子なのだから。
僕達を余所にダルダラさんとディオネが話していたが、不意にダルダラさんがこちらを見た。
「ディオネが、変な事をしているのは知ってたけど、悪事に染まるような子じゃないよ!」
「ダルダラさん。別に悪い事ではないですよ。ただ――」
「若い女を疑って良い事なんてないよ!」
マイケルがダルダラさんに答えてもダルダラさんが言い返す。
ダルダラさんに僕の事ちゃんと言った? とマイケルに小声で聞く。マイケルはその首を横に振った。
なんで言ってないんだよ。言ってなかったらダルダラさんのようになるよ。
「ダルダラさん落ち着いてください。別に――」
「ディオネは自分の夢の為に頑張っているんだよ。それをあんた達が邪魔する通りはないよ!」
その夢の被害者は孤児院を経営する人の娘です。あと、それに巻き込まれた被害者はあなたの目の前にいますよ。と凄く言いたい。
でもダルダラの後ろで頭を下げているディオネが目に入った。
話を合わせてくれってことか? 面倒くさそうだし、それでいいか。
「夢の為に頑張ることは良いことですね」
僕を見てくるダルダラ。少しは落ち着いたかな?
「ディオネさんのその夢を支援できるよう商会に掛け合ってみますよ」
いい男じゃないか。あの眼鏡男とは違うね! と大声で笑った。
マイケルごめんな。何故かマイケルの評判さげちゃった。
「ディオネさんとは、今度の休校日に改めて再度話し合いの場を設けることになりましたので」
「そうかい! よろしく頼むよ!」
と僕の肩を叩くダルダラさん。その音はライアンさんとエリー姉さんが喧嘩した時に肩を殴られた音と同じくらいだった。けどその威力はエリー姉さんに比べて全然痛くない。
本当にエリー姉さんのその力おかしいよ。
ダルダラさんの気が済んだようで、僕はダルダラさんと話ながら孤児院の正面玄関に向かう。
マイケルとディオネは二人して僕達の後ろを力なく歩いてついてくる。
何でマイケルもそんなに落ち込んでいるんだよ。
玄関に着けば、ダルダラさんが僕達に別れの言葉を言ってくる。僕達の方こそ朝から失礼しました。と僕は返しておくが、マイケルは何も言えずに扉を開けて出て行った。
ディオネは僕に近づいてくる。ただ目線だけは僕の持つ鞄をみていた。
「とりあえず、この本は僕が預かっているからさ」
「……はい。よろしくお願いします」
ディオネに言えば、少し間はあったけど答えた。
その言葉を聞いて、僕もマイケルに追いつくよう孤児院を後にした。
あ、ダルダラさんに小屋のこと言うの忘れてた。
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