ただいまの言える場所
蒼海 陽
第1話 ただいまの理由 ep秀一
「おーい、守苑、ホール上がっていいぞー」
店長の声が厨房の喧騒を割って届いた。
忙しない油の音と、サーバー機の水の音が交差する中で、それは確かに俺の名を呼んでいた。
「はーい、じゃあ──あがります」
俺は手早く前掛けを外しながら、厨房から離れて更衣室へ向かった。背中にはほんのりと、揚げ物の匂いが染みついている。
扉を開けると、同じくバイト仲間の男子2人がちょうど制服のまま談笑していた。
「お、守苑、もう上がりか? 早ぇな」
「そうですね。今日、ちょっと早めに入ってたんで」
そう返しながら、制服を脱ぎ、ロッカーの方へと向かう。
すると1人が声をかけてきた。
「じゃあさ、よかったらこれから飯いかね? まかない前に上がったんなら腹減ってんだろ」
「えっと……」
少し口ごもった俺の様子を察して、もう1人が助け船を出してくれる。
「守苑、今日はなんか用あるって言ってたよ。だから早番だったんじゃね?」
「……うん、ありがと。そうなんだ」
フォローに軽く頷きつつ、さっと私服に着替えてリュックを背負う。
ロッカーを「バタン」と閉めたそのとき、不意に思い出した。
「あっ……!」
小さく声を上げ、再びロッカーを開ける。
上段の荷物棚に、ちょこんと置いていた小さな紙袋が目に入った。
中には、午後の休憩時間に近くの雑貨屋で買った、ちょっとした物。
「……危ない、危ない。これ、忘れたらダメだろ」
小さくつぶやいて、自分に言い聞かせるように紙袋を手に取る。
それから、居酒屋、魚の祭(うおのまつり)の裏口を抜けて、夜の街へと足を踏み出した。
***
外はもう夜。時刻は20時少し前。季節は5月――桜はすでに散り、新緑が街を染める頃。週末の夜とあって、道行く人々の顔には、どこか浮き立った色が見える。スーツ姿のサラリーマン、肩を並べて歩くカップル、笑い声を上げる学生たち……それぞれの帰る場所へ、思いを抱えながら歩いている。
そして俺、守苑秀一もその一人だ。
昼間は暑いくらいだったのに、夜風はほんの少しだけ涼しい。
道端に咲いたチューリップはもう散りかけていて、その代わりに、薄紫の花が小さく揺れている。
人混みに紛れながら、俺はまっすぐ家を目指した。
高校卒業後、大学に通う為に実家から離れ一人暮らしするようになり、それなりに慣れた……はずだった。
でも、最近はちょっと違う。
いや、“ちょっと”なんてもんじゃない。
俺は──帰るのが楽しみになっていた。
***
カン、カン、カン──
鉄製の外階段を登る音が、夜風に吸い込まれていく。
築年数はかなり経っているけど、大家さんが手を入れてくれてるからか、どこか“味”があるこのアパート。
俺の部屋は2階の一番奥。鍵を取り出し、ガチャリと扉を開ける。
「――あっ、おかえりなさい。」
ふわりとした優しい声が、玄関越しに聞こえてくる。
その声の主――キッチンに立っていたのは、エプロン姿の女性だった。
肩までの艶やかな髪、細く整った首筋に、エプロンの下から覗く柔らかなシルエット。横顔だけでも分かる、目を引く美しさ。けれど、その整った顔立ちに無頓着なような、どこか不器用な表情が浮かんでいて……それがむしろ、彼女の魅力を引き立てている。
「お疲れさま、もうすぐできるから、先に手洗ってきて?」
そう言いながら、彼女は菜箸を器用に操り、フライパンで何かを炒めていた。湯気と一緒に、甘辛い香りが部屋中に広がっていく。
これが、俺の家の――“一人暮らし”のはずのこの部屋の光景だ。
この女性の名前は
神楽坂 凛(かぐらざか りん)。
俺の部屋の、そして俺の“日常”に、突然舞い降りた【居候】だ。
「あ……ごめん、ちょっと遅くなって」
「ううん。今ちょうど、仕上げに入るとこだったから」
そう言って彼女は微笑む。
エプロンの裾をふわりと揺らしながら、鍋の蓋を開ける手つきは慣れていて、だけど不思議と“家庭的”というよりは、もっと……静かな祈りみたいな所作に見えた。
「今日も、ありがとう」
「……どういたしまして」
その一言だけで、胸の奥にぽつんと、温かい灯がともる気がした。
帰るのが楽しみだと思えるのは、“一人暮らし”じゃなくなったからじゃない。
ただ、そこに「ただいま」が待っていてくれる──その事実が、何よりも嬉しかった。
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