第2話 猫のブローチと炊き立ての時間 ep秀一
「いただきます」「いただきます」
テーブルの向かい側で、ぴたりと同時に手を合わせる音が響く。
木目の古びたちゃぶ台の上には、湯気の立ちのぼる白いご飯、わかめと豆腐の味噌汁、香ばしく焼けたシャケに、煮物や和え物の小鉢が数品並んでいた。どれも華やかなものではないけれど、どこか懐かしくて、じんわりと心を満たしてくれる家庭の味。そんな食卓の香りが、六畳間の狭い部屋いっぱいに広がっていた。
「うん、この煮物、美味しいよ」
箸を止めずに口へ運びながら、俺はついこぼれるように言った。
「ありがとう。今日はね、お肉の特売してたの。いつもと違う部位なんだけど……どうかな?」
キッチンの方をちらりと見て話す凛の目が、どこか誇らしげで嬉しそうだった。
「そうなんだ? ……うん、全然わかんない。凛のご飯、いつも美味しいからさ」
「なにそれ。褒めても何も出ないよ?」
ふわっと笑った凛の頬が、少し赤く染まった。
ほんのり揺れるエプロンの裾。艶のある髪を後ろでまとめ、首筋にかかる一筋の髪。どれもが、どこか柔らかくて、心地いい。
この、なんでもない夕食の時間が、俺にとってはとても大切なものになっていた。
――だから、俺は今日、どうしても渡したいものがあった。
食事を終え、凛が洗い物を始める。水音がキッチンに響き、濡れた指先からしずくが垂れて、タオルでそっと拭われていく。その何気ない一連の動作さえ、俺にはまるで、絵画のように映った。
(今だ……)
そう決意して立ち上がる。
「あ、あの……ちょっと、いいかな……り、凛さんっ!」
しまった。“さん”がついてしまった。緊張のせいだ。
「どうしたの秀一くん? 急に改まって。それに“さん”なんて」
笑い混じりに振り向いた凛の声が、思ったよりも優しかった。
……そう、元々は“神楽坂さん”と呼んでいたのを、凛の提案で名前呼びに変えたのだった。「私の方が年上なんだから、“くん”をつけるよ」なんて言って。呼び名一つにも、彼女なりの距離の詰め方があったのかもしれない。
「……ごめん、なんか、慌てちゃって」
言葉を詰まらせる俺に、凛は小さく首をかしげる。
「大丈夫、なら……いいけど?」
「その、えっと……凛、これ。もしよかったら、受け取ってほしい」
差し出したのは、茶色の紙袋。俺はそれを凛の前にそっと差し出した。
「え? なに?」
凛は紙袋を受け取り、ゆっくりとリボンをほどく。中から現れたのは、小さな箱。さらにその中から出てきたのは、猫の形をしたシルバーのブローチだった。
「わあ……可愛い。でも、これって?」
「……は、半年」
「え?」
「今日で、凛がうちに来て、ちょうど半年。だから、その、記念に……凛、猫好きって言ってたし。似合うかなって……」
言葉に詰まりながら、俺は視線を落とした。
……本当にこれでよかったのか、ずっと悩んでいた。三日も同じ店の前で立ち尽くして、何度もディスプレイを見直して、やっと選んだもの。変に思われたかもしれない。けど。
「ぷっ……ふふ、あははっ。半年記念ってなにそれ? 普通、一年とかじゃないの?」
優しい笑い声が、部屋に響いた。
「い、いや、最近はそういうのもあるって、先輩が……それに、凛に似合うと思って!」
動揺しながら言い訳を重ねる俺を、凛はくすりと笑いながら見つめていた。
「ありがとう、秀一くん。……このブローチ、大切にするね」
そう言って、凛は胸元にそれをそっと留めた。
満面の笑みに、涙が一筋、頬を伝った。
それが笑い涙なのか、嬉し涙なのか、又は別の何かがにじむものなのか、今の俺にはわからない。けれど確かに、その瞬間、彼女の奥にある“何か”に少しだけ触れた気がした。
半年経っても、凛のことはまだよくわからない。笑顔の裏にあるものも、時折見せる沈んだ瞳の意味も。
……でも、それでも、俺はこの日々が幸せだった。
古びたアパートの一室、六畳の空間に漂う味噌汁の匂いと、静かで穏やかな灯り。その中にいる俺と凛。名前で呼び合うようになったばかりの二人が、ほんの少しだけ近づいた夜だった。
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