第30話 食卓のひろがり 後編

 永禄4年(1561)、2月下旬。三河国、刈谷城。

 瀬名の旦那(元康)への愚痴を俺達は延々と聞かされたのであるが、瀬名の愚痴は3点のポイントに集約される。

 一つ、自分のことを「瀬名のお嬢様」「瀬名様」「瀬名殿」と呼ぶこと。

 二つ、自分への接し方に愛が感じられず、他人行儀である。

 三つ、偏食の酷さ。

 1と2はほとんど同じ理由であろうが、この話を聞いた時は関口と水野はドン引きであった。この時代、身分の差の結婚というのはよくあることであろうが、元康の場合瀬名と結婚して自分も今川の一族となったという自負があるだろう。しかし、その接し方はこの当時の時代感覚に合わせても不自然だ。確かに松平家は今川の家臣的な扱いではあるが、そこまでへりくだらなくてもいいではないか。

「婿殿は、義元様や、太原雪斎たいげんせっさい殿に教えを受けておったからな…畏敬の念が強いのかもしれん。しかしこれはちょっと、いかんな」

 関口は難しい顔をしている。瀬名はずっとむすっとした顔をしていた。

「松平様の歩いてきた道に関係があります。まず、原因の一つは水野様です」

「わ、わしだと?左介、どういうことじゃ!」

「水野様が織田方についたことによって、元康様の父、松平広忠様は母上を離縁せざるを得なくなった。そして、織田、今川への人質…。親子のふれあいが全くなく成長してしまった。その結果、瀬名様が言うように、不器用な接し方しか出来なくなってしまったのではないでしょうか」

 そう言ってから、俺は腕を組んで考えた。荒療治となるが、それしかないだろう。


 永禄4年(1561)、3月中旬。尾張国、清州城。

 松平元康を迎え入れる日である。酒井忠次は岡崎城の料理人を連れて清州城の台所へ入った。

「え!?せ、瀬名様!?」

 忠次は驚いた。台所には瀬名がいたからである。

「ど、どうしてここへ!?」

「料理を差配するためじゃ。元康様には了解を取ってある」

「は、そうでございましたか。では、岡崎の材料を」

「無用である。わらわが差配すると言ったであろう」

「そ、それは…」

「そこに置いておけ。八丁味噌、漬物、米。そうであろう」

「は、かしこまりました」

 酒井はその場に材料を置いて、逃げるように立ち去った。

「…これで良かったのだな、左介」

「はい」

 俺は物陰から顔を出して言う。悪いが、岡崎から持ち込んだ材料など使うつもりはない。俺は樽に入っている鰻を出して捌き始めた。

「…鰻か、懐かしいな。駿府にいた頃は浜名湖の鰻をよく食べたものじゃ。しかし、お主、なかなかの腕前じゃな」

「いえ、それより、瀬名様、飯を炊いてもらえませんか」

「…本当に、わらわが作るのか?この料理を…」

「何を言ってるんですか。この間、そう言ったじゃないですか」

「しかし…料理など…やったことがない」

「大丈夫、簡単ですよ。俺の言ったとおりにやれば」


 信長の居室。信長は上座に座り、隣に筆頭家老の林秀貞が控える。正面に松平元康、そして家老の酒井忠次が平伏する。

「お久しゅうござりまする、上総介殿」

「まったくじゃ。何年ぶりかのう」

「当家の事情は、書状にてご説明してござりまするが、何卒…」

「分かっておる。わしもな、美濃攻めを考えておる。松平殿と同盟を結び、三河の憂いを無くせば、安心して美濃に集中できるというもの。三河国の派兵は家老の佐久間信盛を筆頭に考えておる、後で紹介しよう」

「ありがたき幸せ」

「それと、同盟の条件であるが、将来、そなたの嫡男にわしの娘を娶ってもらう、ということでどうじゃ」

「は、結構でございます。よろしくお願い申し上げます」

 信長はにやっと笑って、傍らの湯呑みから煎茶を飲む。

「そのう、それがしのほうもお願いがあるのですが、煎茶というものを…」

 信長ははじけたように笑った。

「もちろん融通する。後で、古田左介を紹介しよう。…さて」

 信長は傍らにいた右筆から書状を預かり、それを元康に見せた。元康が頷くと、信長は小刀で指を切り、血判を押す。元康もそれに応じた。

「これで締結となったわけだ。よろしく頼む」

「こちらこそ」

「…積もる話もある。元康殿と二人きりで話したいが、良いか?」

 信長は林秀貞と酒井忠次を交互に見て言った。林には事前に話を通してあるので、すぐ頷くと、林は「さあ」と酒井を促す。酒井は困惑したが、元康が目で合図し、その場を去った。信長は手を2回叩くと、俺は襖を開けてお盆に料理を乗せ、2人の前に立った。

「これは…?」

 元康は怪訝な顔をした。茶碗には玄米、上に鰻、わさび、三つ葉が乗っている。傍らには急須があった。そして小さめのしゃもじが置いてある。

「左介、説明せよ」

 信長は俺を見て言う。

「はい。これは鰻の混ぜご飯でございます。鰻は焼いてたまり醤油で味をつけてあります。まずご飯と鰻をかき混ぜて召し上がっていただいて、脇の急須には煎茶が入っておりますので、頃合いを見計らってかけていただくと、別の味わいが楽しめます」

 いわゆる「ひつまぶし」だが、この時代はまだ存在しないと思われるが、今川家は浜名湖のうなぎを食べる機会があったと瀬名が刈谷城で話してくれた。松平元康が鰻を食べた可能性もゼロではない。

「上総介殿。失礼ながら、それがしは…」

「なんと?」

「食べられません。わしは、飯、漬物、味噌汁しか食わんのです」

「…元康殿。先程、わしとそなたは同盟を締結した。ということは、終生の友と言っても良い。ええい!お主は、終生の友の顔に泥を塗るような卑怯者なのか!?」

「うっ」

 元康はびくっと体を震わせる。信長は怒った口調でそう言ってから、俺の方を見てにやりと笑った。元康は恐縮し、平伏していたが起き上がる。少しの沈黙があり、元康は語り始めた。

「…ご存知だと思いますが、それがしは人質として織田と今川を転々としました。織田と今川の女中がただ作った料理をたった1人で食べなくてはならなかった」

「その料理が、玄米、漬物、味噌汁だった…」

 俺が隣で言うと、元康は顔色を変えず頷いて、

「そう。そして、気がついてみれば、それしか食べられない人間になっていた…」

 元康は頭を抱えた。

「…本心では飢えているんです。だが、他のものはどうしても食べられない!」

「この間…煎茶を、飲みましたね」

 俺の言葉に元康は仰天する。

「えっ…!?」

「この間、刈谷城で煎茶を飲みましたよね。他のものを食べたい、飲みたいという衝動は、まだあなたの中に埋み火のように残っているんだ。食べられないわけじゃない!」

 俺はつい、元康を指さしてしまった。

「あなたは愛情に満たされない、縮こまった冷たい生活を送ったせいで、食べ物に恐怖感を抱いているんだ。食べてください!」

「し、しかし!私には…!」

「松平様。…この料理、一体誰が作ったと思ってます?」

 その言葉に、元康と信長は目を見開いた。

「何…!?」

「この料理は、女中がただ作っただけの料理じゃない。あなたの奥様、瀬名様が愛情を込めて作った料理なんですよ!?」

「えっ!?」

 襖が開けられ、瀬名が姿を表した。

「おじょうさ…いや、せ、瀬名、どうして!?」

 元康は驚いて言う。その言葉に信長はぎょっとした。

「…妻は自分の主君である今川の一族だから、自分の妻をお嬢様と呼ぶ。でもね。あなたはもう、岡崎城の城主なんだ!一城の主なんだぜ!」

「し、しかし…!」

「食べてください!あなた、その呪縛の檻から、一生自分の心を解き放たないつもりなんですか!?あなたの心を解き放つには、これを食べるしかないんだぜ!」

 言い過ぎかと思ったが、まあ、俺は一度死んだ身だ。思ったことをそのまま言ってしまった。

 そしてまたしても、少しの沈黙。

「…よおおおおし!」

 しかし、元康は決意したかのようにそう唸ると、箸を持ち、茶碗を掴むと、一口、食べた。少し苦しそうな顔をするものの、目を見開いて言う。

「こ、これは…!?鰻の香ばしい風味と三つ葉と山葵の香りがなんとも言えん!」

 そう言って元康はひつまぶしを貪り食った。半分ぐらい食べたところで煎茶をかけ、もう一度かっこむ。

「おお…!煎茶の香りが相まって更に香ばしい。そして深い味わいになっている。これはたまらん!」

 がつがつ、という感じで元康は完食してしまった。その食べっぷりに信長は呆然としつつ、また俺の方を向いてにやりと笑う。

「…瀬名」

 元康はそう、ぽつりと呟いた。瀬名が側に駆け寄る。

「すまなかった…わしは、わしは…お主を誰よりも愛していたのに…心が縮こまっていた…。これからも、わしについてきてくれるか」

「…元康様、今日からもう一度夫婦となりました。そう思えば宜しいではありませんか」

「…これからもよろしく頼む」

「元康様…!」

「あのー、松平様、こんな感じで、鰻が食べられたわけですから、少しずつ他の物も食べて…って」 

 俺はそう言ったが、手を取って泣きながら見つめ合っている元康と瀬名を見て、ゲンナリしてしまった。信長がにやにや笑いながら首を降るので、俺は照れ笑いをし、改めて煎茶の準備をするのであった。


 帰り支度をする、元康、瀬名、そして忠次。

 俺と林秀貞は清州城の前で見送った。

「左介殿。これで2度もそなたにしてやられた。お返しは必ずしますぞ?」

 元康は微笑んで言う。しかしそれは、吹っ切れたような顔だった。

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