第7話 目覚める男

 良い男というのは、ラッコによく似ている。

 食肉目イタチ科ラッコ属の、あのラッコだ。


 彼らは大事な貝を胸の上で砕き、その実を食する。

 良い男も同じだ。

 胸に秘めた熱意や誇りを砕かれた時、その失敗や挫折という貝殻の中にこそ。

 奥深い渋みを手に入れられる。


 ラッコは絶滅の危機に瀕してしまった。

 良い男が絶滅するかは──

 君次第だ。


 ◇


 熱い。

 服が汗で濡れた寝苦しさと、ごつごつした地面の固さで目が覚めた。

 頭の重さから二日酔いかと思い反省したが……。

 昨夜どころか、何十日も記憶が抜け落ちている。


「ここは……、どこだ……?」


 吸い込む息が、肺を燃やすような暑さ。

 水浴びをしたように全身が汗で濡れていた。

 鼻を突く臭気と、固い石くれが散らばる洞穴。

 一際大きな岩石のようなものが、小高い丘のようなところに鎮座しているだけで何も無い。


「目が覚めたのね、ダンディ。気分はどう?」


 綺麗な黒髪の女性が俺を覗き込む。

 長い髪を後ろで括り、首筋に汗が流れていた。

 目が合うと、背中を向けられてしまう。

 過ちを犯してしまったのかと勘繰るが、終電を逃したとしても、こんな場所には辿り着かないな。


「……最悪の寝覚めだよ。ただ──」


「「肩こりと腰痛とはおさらば出来たみたいだ」」


 背中越しに笑う彼女の髪が、嬉しそうに揺れていた。

 言葉を先読みされていた気味の悪さはほんの僅かで。

 こんな事を何度も繰り返してきた……そんな懐かしさが胸をくすぐった。


「君は……。いや、それよりも……ここはどこなんだ?」


 大きく深呼吸をした後、パチンと顔を叩く音が響いた。

 振り向いた彼女の顔は、ほんのりと赤らんでいる。

 何の気合いを込めてたのか、俺には想像も出来なかった。


「落ち着いて聞いてね?」


 勿体ぶった理由が、すぐにわかる。

 それは荒唐無稽で。

 とても素面で聞いていられない内容だった。


「私の名前はヴィオラ。あなたとはもう二ヶ月も一緒に旅をしているの。あなたはいくつか失ったものがあるから……取り乱さないで聞いてね?」


 ヴィオラは長い指を折りながら、俺が失くしたものを教えてくれた。


 世界。ここは俺の住んでた日本ではなく、フランメル王国という別世界らしい。


 記憶。三日しか記憶が保てないらしい。彼女にとって、この説明が二十回目ということだ。


 文字。俺は文字が読めなくなっていた。確かに背広に入っていた手帳は一切解読できなくなっている。


 名前。自分の名前がわからない。ヴィオラは俺をダンディと呼ぶ。二ヶ月もそうしてるなら、それでいい。


 痛み。どうやら肩こりや腰痛とおさらばしたことは喜んでる場合じゃない。皮膚をつねっても何も感じなかった。


「その五つか?」


「いや、おそらくだけど、あと二つ。でも何を失くしてるのかわからないの」


 俺はどうやら七人の魔女とやらに呪われたらしい。

 心当たりのない呪いほど、理不尽なものもないな。

 記憶がない中で失くしたものを探せ、なんて。

 随分と素敵な世界で目を覚ましてしまったようだ。


「全く、ファンタジーなんて年じゃないんだけどな」


 煙草を吸わなきゃやってられない。

 汗で濡れた髪をかき揚げつつ、ポケットを探るが……、目当てのものが見つからなかった。


「まさか……、失くしたあと二つって煙草とライターか?」


「そんなわけないでしょ。昨日あなた自身で麓の村に置いていたわ。だって、こんなところで煙草を吸ったら──」


 鼻が曲がるような臭気が、胸焼けを起こす。

 ヴィオラの忠告を聞く前に、無意識に火をつけることは十分に考えられた。

 つまり、俺はここがどんなところか分かっていたらしいな。


「おかしな世界で記憶がないだけじゃなく、煙草もおあずけか……。とにかくその麓の村とやらに向かおうか」


 深い溜息が漏れた。

 ヴィオラを責める気はないが、この熱さと理不尽な状況に少し苛立ちを覚えてしまう。

 煙草の一本でも吸えれば気持ちを鎮められるが、それすらも奪われてしまった。

 みっとも無いところを見せる前に、涼しいところで煙草を吸おう。


「ちょっと待って! 私達は目的があってここにいるのよ!?」


「悪いけど覚えてないな」


 足を止めない俺を、ヴィオラの腕が引き留めた。

 年頃の女性が、顔に汗をかきながら真っ直ぐな目で訴える。

 それを無視できるほど、俺はまだ枯れちゃいない。


「昨日のあなたから伝言を貰ってるわ。これだけ言えば伝わるだろう、ってね」


「ほぅ。聞かせてほしいね。本当に俺からの伝言であれば、やる気が出るメッセージをくれているはずだ」


 ヴィオラの唇が、妖しく開いた。

 きっと彼女自身も、俺のことをよく理解してくれているのだろう。

 挑発するように目を細めて、こう言った。


「『お前は病気の親子を助かるためにそこにいる』とのことよ。ダンディ、力を貸して」


 思わずポケットを弄るも、煙草は無いことを思い出す。

 習慣というのは恐ろしいな。

 気合いを入れるのに、ついニコチンに頼ろうとしてしまった。



「……ヴィオラ。何か飲み物をくれないか?」


「この熱さだからね。ぬるま湯で良ければ」


「ちょうどいい。腹に溜まるものは勘弁だ」


 渇いた身体に、染み込んでいく。

 まだ自分の境遇を理解は出来ていなかった。

 だが、今やるべきことは煙草を吸うことじゃない。


「指示をくれ。さっさと終わらせて朝飯でも食べに行こうか」

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