第42話:最上義光、最後の抵抗の狼煙

 今川義元が天下統一を成し遂げた1590年。日本は、長きにわたる戦乱の時代を終え、平和な時代を迎えようとしていた。義元の「筋肉理論」と合理的采配によって整備された街道には商人が行き交い、農民たちの笑い声が絶えなかった。今川幕府の統治は、まさに「筋肉泰平の世」を築きつつあった。


 だが、その平和な日本に、ただ一人、服従を拒む男がいた。奥羽の最上義光。彼は、旧来の「戦国武士の矜持」を最後まで守り抜こうとする、物語最後の抵抗者だった。義元が目指す「新時代」と、義光が守ろうとする「旧時代」の、思想対立を象徴する存在だった。


 雪深い奥羽の地。最上家の居城、山形城では、重厚な城郭が雪に埋もれるように佇んでいた。その城の一角、凍てつく空気の中、最上義光は、黙々と槍の素振りを続けていた。遠くの山々からは、吹き荒れる吹雪の音が、まるでこの世の終わりを告げるかのように響き渡っている。彼の背には、旧来の武士の矜持が燃え盛る炎のように見えていた。その凍えるような寒さの中でも、彼の体から放たれる熱気は、周囲の雪を僅かに溶かしていた。


 義光の脳裏には、今川義元という男の噂が鮮明に蘇る。火縄銃の弾を胸筋で弾き返したという常識外れの武勇。武力ではなく、経済や外交、さらには子供にまで筋力トレーニングを課すという狂気の理論。それは、義光が信じてきた「武士の道」とはあまりにもかけ離れたものだった。義光の胸には、「武士の誇り」が踏みにじられることへの、激しい怒りと憤りが膨らんでいた。


(天下統一……か。馬鹿馬鹿しい。筋肉などという、異形の力で成し遂げた天下など、真の天下では断じてない!)。


 ふと、義光の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇った。斬首された祖父の首を、決して敵に渡さぬと誓い、最上家の家臣たちが一歩も引かなかったあの日の光景だ。誰も逃げなかった。誰も屈しなかった。その血と誇りが、己の体に流れている。義光にとって、それは単なる昔話ではない。武士としての「矜持」とは、遺伝子に刻まれた、決して裏切ってはならない血の誓いだった。その誓いを守るため、義光は今、一人、この雪深い地で最後の抵抗を試みようとしていた。


 城下からは、風に乗って、人々の話し声が微かに聞こえてくる。「今川の治世は、飢饉も疫病もないらしいぞ」「殿の仰せられた『筋肉理論』は、やはり正しかったのかもしれぬな」。


 義光は、その声を聞くと、耳を塞いだ。民は、飢えや病に怯えることなく、平和な日々を過ごしたいと願っている。それは、武士としての義光も願うことだ。しかし、その平和が、「武士の道」を捨てた先にしか存在しないとすれば、義光は、その平和を拒絶するしかなかった。彼は、時代の変化に追い越されていく、孤高の背中を、誰にも見せることなく、ただ雪の中を歩いていた。


「義光様! 今川軍は、既に陸奥まで兵を進めておりまする!」


 家臣の報告に、義光は静かに、しかし有無を言わせぬ響きを帯びた声で答えた。「構わぬ。奴らは、武士の心を持たぬ。筋肉などという異形が、武士の世を終わらせるなど、断じて許すわけにはいかぬ」。


 老臣が恐る恐る諫言しようとしたが、義光はそれを手で制した。彼の瞳には、もはや理性は宿っていなかった。代わりに、武士としての最後の意地と、誇りをかけた決意の光が輝いていた。


「義光様、ここは一度、今川に頭を下げるべきかと……」。


 老臣の言葉に、義光の顔に微細な苛立ちが浮かんだ。彼は、自らの武士の矜持を理解しない家臣たちに、心の底から失望していた。彼らの言葉は、義光にとって、武士の道から外れ、安易な道を選ぶことを推奨する、甘美な毒のように聞こえた。


「黙れ! 今川義元は、ただの化け物だ! 奴に頭を垂れれば、武士の道は途絶える! 義光、この身命を賭して、旧時代の武士の誇りを守り抜いてみせる!」。


 義光の咆哮が、雪深い奥羽の空に響き渡った。彼の言葉は、旧時代の武士の美学や矜持を熱く語る、最後の弁明だった。彼は、自らの信念を貫き通すために、最後の戦いに臨むことを決意した。


 その日の夜。山形城の天守から、一本の狼煙が上がった。煙は、凍てつく夜空に吸い込まれ、遠く、今川軍の陣営へと向かう。それは、義元が目指す「新時代」と、義光が守ろうとする「旧時代」の、最後の思想対立の始まりを告げる、静かな、しかし確かな狼煙だった。

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