第3話:雨中の采配、罠を張る覇王の筋肉眼差し
永禄三年五月十九日、早朝。
鉛色の空から叩きつけるような豪雨が、桶狭間の山野を泥濘と化していた。陣幕の奥、義元は静かに天を仰いでいた。隣に控える朝比奈泰朝は、殿の異様なまでの静けさに、微細な苛立ちを覚える。だが、それ以上に、この数日で殿の身に起きた常識を超えた変化に、得体の知れない畏怖を抱いていた。
「泰朝」
義元の声が、雷鳴に負けぬほど響く。その声には、普段の優雅さとは異なる、有無を言わせぬ覇気が宿っていた。
「物見衆より報! 織田信長、雨に乗じて我ら本陣へ奇襲!」
伝令の叫びが、雷鳴に紛れて響き渡る。史実通りの報せに、義元の口元がニヤリと吊り上がった。
(来たか、信長……だが、今日の主役は貴様ではない。この、鍛え上げられた肉体(マッスル)だ)
義元の胸には、「未来を変える者としての興奮」と、「筋肉は決して裏切らない」という揺るぎない確信が熱く膨らんでいた。彼は、自身が転生して以来、夜な夜なひっそりと続けてきた、現代知識に基づく筋力トレーニングの成果を今、見せつける時が来たと悟った。その「狂気じみた自信」が、彼を突き動かす価値観だった。
「よし、頃合いだ」
義元の号令と共に、彼を囲む側近たちが、思わず息を呑んだ。義元は、ゆっくりと立ち上がると、卓に広げた地図を指さした。
「泰朝。先ほど命じた丘の裏の伏兵、そして鉄砲隊の配置は抜かりないか?」
「は、しかし殿……本陣は低地、鉄砲隊を伏せるなど……戦の常識では…」
泰朝の言葉は、義元の鋭い眼光に遮られた。彼の瞳の奥には、彼が見たことのない、未来を見据えるような、そして何かを決定した者の、冷徹な光が宿っていた。
「愚か者め。常識など、筋肉の理屈の前では無意味と知れ! 良いか、泰朝。この戦は、ただの勝利ではない。俺の『筋肉理論』を天下に示す最初の舞台だ」
義元の言葉に、泰朝は納得できない沈黙を保つしかなかった。彼の額には、困惑と、殿への不審が入り混じった汗が滲んでいた。しかし、義元の放つ異様な筋肉の威圧感と、どこか確信めいた態度に気圧され、従わざるを得ない。
「そして、物見衆からの報は、寸秒も違わず伝えよ。雨天時は視界が悪い。故に、音と気配を察知する者が重要となる。太鼓や角笛を使った短距離伝令を、密に配置せよ。伝令は常に二人一組。一人倒れても、もう一人が必ず報を繋ぐのだ」
当時の伝令網とは一線を画す、まるで現代の通信網のような指示だった。泰朝の心には、「狂気」と「畏怖」が入り混じった「感情の膨張」が起こっていた。そして、その感情は、やがて「もしかしたら、殿の言う通りなのかもしれない」という、新たな「価値観の発動」へと繋がっていく。
義元は、自らの隆起した上腕を指さした。その肉体は、まるで硬質な岩石のようだった。
「これこそが、真の戦支度である。貴様らの常識など、もはや過去の遺物だ。合理的な理論に裏打ちされた肉体の前では、どんな奇襲も無意味と知れ!」
泰朝は、もう反論する気力もなかった。彼は、殿の「愚直なまでの合理性」に、ただ従うしかなかった。
桶狭間決戦の夜は更けていく。今川軍は、義元の常識外れの采配によって、静かに、しかし確実に牙を研いでいた。それは、「筋肉覇王義元」の伝説の幕開けとなる、まさに嵐の前の静けさだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます