第4話:筋肉の咆哮、火縄銃を弾く鋼の胸筋
永禄三年五月十九日、早朝。
鉛色の空から叩きつけるような豪雨が、桶狭間の山野を泥濘と化していた。今川軍の陣幕の中、義元は静かに天を仰いでいた。隣に控える朝比奈泰朝は、殿の異様なまでの静けさに、微細な苛立ちを覚える。だが、それ以上に、この数日で殿の身に起きた常識を超えた変化に、得体の知れない畏怖を抱いていた。
(来たか、信長……だが、今日の主役は貴様ではない。この、鍛え上げられた肉体(マッスル)だ)
義元の胸には、「未来を変える者としての興奮」と、「筋肉は決して裏切らない」という揺るぎない確信が熱く膨らんでいた。彼は、自身が転生して以来、夜な夜なひっそりと続けてきた、現代知識に基づく筋力トレーニングの成果を今、見せつける時が来たと悟った。その「狂気じみた自信」が、彼を突き動かす価値観だった。
「よし、頃合いだ」
義元の号令と共に、彼を囲む側近たちが、思わず息を呑んだ。義元は、ゆっくりと、しかし確かな動作で、まばゆいばかりの豪華な上着を脱ぎ捨て始めたのだ。
ドンッ!
雨粒を弾き、隆起した大胸筋が白んだ空の下でまばゆく輝いた。鍛え上げられた三角筋、鋼のような腹筋が、彼の肉体に彫刻のように刻まれている。その肉体から放たれる圧倒的な威圧感と、常軌を逸した「圧」に、周囲の今川兵たちは恐怖と、しかし抗いがたい畏敬の念に囚われた。彼らは皆、目を奪われ、言葉を失った。
「殿の……お、お体が……!」
朝比奈泰朝が、呆然と呟いた。その声には、以前の微細な苛立ちは消え失せ、純粋な驚愕と、底知れぬ信頼が混じり合っていた。
その時、泥を跳ね上げ、目の前の偽装本陣に突撃してくる織田信長隊の姿が見えた。彼らは、まさかこの雨中に、これほどの奇策が隠されているとは夢にも思っていなかっただろう。
「我が肉を見よ! そして聞け! 我が号令を!」
義元は、天を衝くかのように片腕を掲げ、喉の奥から絞り出すような、戦場を揺るがす咆哮を上げた。
「撃てェェェエエエ!!!」
雷鳴に紛れて、丘の斜面に伏せていた今川鉄砲隊が、一斉に火を吹いた。
「ダアアァン! ダアアァン! ダアアァン!」
轟音と火薬の匂いが雨中に立ち込め、横合いから浴びせられた銃弾の嵐に、織田隊の隊列は一瞬で崩壊した。信長は混乱の中で叫んだが、もはや手遅れだった。彼の「奇襲による一撃必殺」という価値観は、今、まさに義元の「筋肉と知略」によって瓦解しようとしていた。
「逃がすな! 一気に包囲し、殲滅せよ!」
義元の号令と共に、偽装本陣から一度後退したと見せかけていた前衛部隊が反転攻勢に転じ、側面からも今川軍が信長隊を挟み撃ちにする。泥濘と豪雨で退路を失った信長隊は、為す術なく今川軍の猛攻に晒された。
その中でも、義元は冷静だった。彼は丘の上から、まるで戦場全体が手のひら上にあるかのように、指揮を執り続ける。彼の眼差しは、勝利の確信に満ちていた。
「織田兵、これ以上は無益である!」
今川兵の咆哮が、雨中の桶狭間に響き渡った。織田軍の兵力は激減し、信長もまた泥の中に倒れ伏す。
その声を聞いた義元は、静かに目を閉じた。脳裏には、転生前の歴史書で見た信長の死の描写がよぎる。しかし、今回は違う。義元は、信長を間近で敗北させた罪悪感を胸に抱きつつも、それ以上に歴史を変えた者としての途方もない興奮に全身を支配されていた。彼の「生き残る」という最初の価値観は達成され、次なる「天下泰平を創る」という価値観の発動が、より明確な「思考」へと繋がる。
「筋肉は……裏切らん」
義元の唇から、静かに、しかし確かな言葉が漏れた。その言葉には、彼だけが知る、新たな時代の幕開けへの確信が込められていた。
---
その時だった。混乱の中で踏ん張っていた織田信長が、最後の抵抗とばかりに、残存する火縄銃隊に命じた。
「撃てッ! 撃ちまくれェッ!!」
数丁の火縄銃が、雨の合間を縫って火を吹いた。狙いは、丘の上に立つ今川義元。鉛玉が、轟音と共に義元目掛けて飛んでくる。
織田兵たちは、これが最後の希望だとばかりに、その行方を目を凝らして追った。
義元は、その飛来する弾丸を、静かに、しかし確かな視線で捉えていた。彼の口元に、不敵な笑みが浮かび上がる。
「フッ……火縄銃? そんなもの、筋肉の前では無意味だ!」
次の瞬間、義元は、まるで弾丸を迎え撃つかのように、胸を大きく張った。彼の隆起した大胸筋が、雨の中、陽炎のように湯気を立てているかのようだ。
ズン!ズン!ズン!
火縄銃の弾丸が、義元の胸板に次々と着弾した。だが、驚くべきことに、弾丸は義元の肉体を貫通せず、まるでゴム毬のように弾かれ、胸筋の上で僅かにバウンドすると、そのまま地面に落ちていく。
「な……な……化け物だ……!」
織田兵たちの間に、絶叫が響き渡った。彼らは、目の前で繰り広げられる常識を覆す光景に、完全に戦意を喪失した。火縄銃という、当時の最新兵器が、一人の人間の「筋肉」によって無効化されるなど、誰が想像できただろうか。彼らの「武力」という価値観が、音を立てて崩壊していく。
義元は、胸筋についた弾痕を、まるで埃でも払うかのように、優雅な仕草でポンと叩いた。彼の肉体には、傷一つついていない。その顔には、勝利の確信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「筋肉は、天下を制す!!」
義元が高らかに叫ぶと、織田信長の目が大きく見開かれた。信長の顔には、敗北の絶望と、未だ理解できない義元の采配、そして目の前で繰り広げられた「筋肉による火縄銃無効化」という超常現象への強い違和感が混じり合っていた。彼の「常識」という価値観が、根底から揺さぶられる感覚だ。信長は、「これほどの力を持つ者がいるのか……」と、まるで「力への探求」という本能が揺さぶられるような感情を抱いた。信長の手は、かすかに震えている。それは恐怖か、それとも──。
周囲の織田兵たちは、もはや戦う意思を完全に失い、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。彼らの間には、「この男には勝てない」という絶望と、「これほどの強さを持つ者に従うべきだ」という根源的な納得感が大きく膨らんでいた。泥濘に膝をつき、次々と武器を捨てる兵士たちの姿が、雨上がりの空の下に広がっていく。
それは、まさしく戦国の常識が、筋肉と合理によって打ち砕かれた瞬間だった。
義元は、そんな信長の様子を鋭く見つめていた。彼の口元には、不敵な笑みが浮かび上がる。義元は知っている。信長が最も惹かれるのは、「強さ」であると。
義元は、ゆっくりと、しかし確実に信長へと歩み寄った。信長の顔には、もはや傲慢さはなく、ただ敗者の絶望と、目の前の「筋肉の化け物」への畏怖が貼り付いていた。義元は、信長の目の前で立ち止まると、その大きく広げた腕を信長に向かって差し出した。その腕は、鋼のように隆起し、雨上がりの陽光を浴びて、輝いていた。
「信長よ……」
義元の声は、静かに、しかし圧倒的な説得力をもって信長の心に響いた。
「お前も、こうはなりたくないのか?」
信長の体が、びくりと震えた。彼の視線は、義元の差し伸べられた腕、そしてその隆起した筋肉に釘付けになっていた。彼の脳内では、「武士としてのプライド」と「未知の強さへの渇望」という感情が激しくぶつかり合い、分裂を起こしていた。
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